2023年4月23日日曜日

髪染め・平井・12年

 予告通り、髪の毛を染める。やはり脱色しただけだと、脱色しただけだな、という感じの金茶色でしかないので、早急に入れないわけにはいかなかった。色は店頭で大いに悩んだ挙句、緑色っぽいアッシュみたいな、なんかそんなものを選んだ。せっかく脱色をしたのだから、栗色みたいな無難なものにするのももったいないよな、ということを思ったのだった。だから緑色と最後まで迷ったのは、ピンク色だった。結果的に、緑がかった金髪というか、くすんだ黄緑というか、だいぶ表現しづらい色合いの、なかなか悪くない感じになった。もっともカラー剤というものは、これから数日間で刻々と色が変化するので、最終的にどう落ち着くのかは分からない。とりあえず、髪もだんだん伸びてきて、形が自分の中で徐々に受け入れるようになってきたこともあり、なんとか挫けずに済みそうだ。よかった。先週の散髪後は、本当に挫けそうだった。

 鳥取県の平井知事が、今話題のChatGTPを、県の機関で使用することを禁止したという話の中で、映像で実際にそれを発しているところは見つけられないのだが、「ChatGTPに頼らず、ちゃんとじーみーちーにやっていくべき」みたいなことを言ったそうで、ChatGTPというものに関しては、当座のところ自分には無関係なのでなんの感情も持っていないのだが、ChatGTPそのものには思うところがなくても、ChatGTPで遊んで調子に乗ってる輩のことはもちろん忌々しく感じていたので、平井知事のこの、奴らの盛り上がりに冷や水を浴びせるような、腰が砕けそうになるダジャレは、とてもすばらしいと思った。そもそも「チャットジーティーピー」という、扱う人のことを考えていない、作った側の事情だろう一方的な名称が気に喰わなかった。いや、気に喰わずにいたのだ、ということをこのダジャレによって気づかされた。名称のイラっと感、そして持て囃す輩へのイラっと感が、「ちゃんとじーみーちー」というダジャレによって、見事に浄化された。尊い。もっとすさまじく褒められるべきなのに、そこまでこのフレーズが世間で取り沙汰されている感じがなくて、悔しい。年末までみんなで風化させずに守り続けようよ。

 2011年に、12年後にまた記事を投稿すると宣言した「KUCHIBASHI DIARY」に、このたび記事を投稿することができたのだった。とても感慨深かった。12年は、香港割譲の99年にも通ずる、事実上の永久、みたいな感覚があった。12年したら12年後が来るのは分かっていたが、あまりにもイメージすることができなくて、来ない気もしていた。来てみれば、12年後の僕は、住んでいる場所や職業こそ変わったが、人間そのものは、当時から別段変わっていることもなくて、なるほどそれは、ブログのトップ画面に、10個の最新記事が並ぶ中で、ひとつ前の記事と最新の記事の更新日時には12年の隔たりがあるという、ただそれだけのことだな、という感じがある。記事は同じように並ぶ。年月が隔たるだけである。なんか、そういうことだな、と思った。ちょっと取り組んだことが珍しいので、あまりこの感覚は理解してもらえないかもしれない。みなさんもやってみたらいい。12年後ブログ。12年かかるけど。

2023年4月18日火曜日

あまちゃん・髪・予報

 BSで「あまちゃん」の再放送が始まり、録画して観ている。おもしろい。放送が2013年だというので、ちょうど10年前ということになる。
 10年前の本放送時は第一次島根移住の頃で、3月で酒蔵の仕事を終え、4月からは洋服のお直し店に勤めていた。その勤務は午後からだったので、「あまちゃん」はちょうどその当時の生活リズムにマッチして、朝ふつうに観ることができたのだった。ドラマ自体が格別おもしろいのに加え、このドラマには個人的にそういう感慨もある。
 それにしても、10年後の今から見ると、震災のわずか2年後に、コメディタッチのこのようなドラマをやるなんてけっこう大胆だな、と思うのだが、当時はそんなことは思わなかった。丸2年は、その丸2年の当事者にとっては、大きい隔たりなのだ。しかし10年後の人間から見ると、2年なんて直後のように思えてしまう。僕の母は1954年生まれなのだが、僕は子どもの頃、母は戦後の生まれだと感じていた。しかし実は終戦から9年も経っているわけで、もちろん当時の空気感は分かりようもないが、たぶんあまり戦後という感じではない。これは大人になってからそう思うようになった。だから下手すれば1983年生まれの自分もまた、自分の子どもや、その子どもの目から見て、戦後の生まれのように思われてしまうかもしれない。なにしろ我々は、源頼朝などと同じ、1000年代生まれなのだから。

 散髪が失敗し、テンションが下がっている。救済策として脱色はしたものの、やはり形の気に入らなさは如何ともしがたく、鏡を見るたびに落ち込んでいる。何年間かにいちど、喉元を過ぎて熱さを忘れてしまうようで、短髪を求め、その似合わなさに絶望するはめになる。一生の大半を、丸っぽい、ちょいモサな髪型でやってきたのだから、僕の顔はもうその髪型に適合する仕様になっているのだ。忘れちゃダメじゃないか。
 鏡を見るたびにテンションが下がるんだ、ということをファルマンに嘆いたら、「あんたはこれまでそんなに自分のビジュアルが好きだったのか」と驚かれた。そう言われて改めて考えてみると、まあ好きなんだと思う。自己愛。ちょいモサの自分の愛しさ。
 ああ早く髪が伸びてほしい。
 そしてこの経験を通して、しみじみと思った。
 禿げたくない。

 帰省しないでいいGWに、心が躍っている。帰省しない代わりに何をするということもない。予定がないことが尊いのである。しかしずっと家や実家でダラダラというのもさすがに、ということでレジャー的な計画を立てた。予約申し込みをするタイプのレジャーである。その申し込みをするにあたり、日取りをどうするかファルマンと話し合う。タイミング的にこの日がいいだろうと決めたところ、ファルマンが天気予報を見て、「その日は雨の予報だ」と言ったのでびっくりした。GW、まだ半月後である。週間天気さえろくに当たらないのを何度も目の当たりにしてきたのに、半月後の天気予報を、見て、そしてそういうことを言ってくる。阿呆か、と思う。それでも予約は入れないといけないので、その日に入れた。もう天候は出たとこ勝負でしょうがない。しょうがないはずなのに、もしも当日が雨だった場合、半月後の、なんの信憑性もない天気予報を見て、「その日は雨らしいよ」と言った人が、たまたまの正解を振りかざして、「ほれ見たことか!」となることを思うと、すごく嫌な気持ちになる。嫌な想像を巡らせ、水を差しておく人、すなわち正常性バイアスの真逆を行く人って、卑怯だと思う。

2023年4月6日木曜日

ポルガと卒業式・甥と屈託・とんびと稲荷ずし

 帰省のどさくさできちんと書けなかったが、ポルガは小学校を卒業したのである。卒業式は、もちろん僕も出るつもりだったのだけど、あの4連休の前日の金曜日だったので、さすがに有休を取るのが気まずく、あきらめた。ちなみに卒業式のポルガの服装は、去年作った「礼服ワンピース」。読み返したらこの記事内でしっかりと予言していたが、本当に小学校の卒業式で着せることになった。「胸に華やかな飾りでもつければ」とも書いていたが、それはたぶん学校で紅白のロゼット的なものが配布されるだろうと予想し、ワンピースの上に、このために買ったライトグレーのニットカーディガンという、とてもシンプルな感じに仕上げた。当日の写真を見たら、クラスの集合写真において、女子の6割くらいが、色彩の暴力のような袴を着ていたので、うちの子の清楚さが際立っていた。それにしても小学校の卒業式は今、あんなことになっているのか。色味的に、どうもスタジオアリス界隈の気配を感じる。ハーフ成人式もいつの間にか浸透してきているし、あの業界というのはなかなか政治力があるようだと思った。僕は娘が手作りのワンピースで卒業式に出てくれて、とても嬉しかった。

 サッカーチームの合宿で前回会えなかった横浜の甥だが、実は今回もギリギリであり、われわれが帰ってすぐ、学校が春休みに入ったタイミングで、早々に合宿に出たという。前回はたしか北関東とかだったと思うが、今回の合宿先はイタリア。……へっ? という話だが、なんでも所属しているサッカーチームは、イタリアのチームの出先機関というか、あるいは提携しているんだか、詳しいことはよく知らないが、とにかく繋がりがあるため、そういうことをするらしい。ちなみに言っておくが、甥にすばらしいサッカーの才能があって見初められて、とか、そういうことでは一切ないそうである。もちろん普通にお金を払って参加するわけで、合宿というより、レクリエーションというか、子どもの人生経験&春休みの厄介払いみたいな意味合いが強そうだと感じた。
 つい先日、甥が無事に帰宅したとのことで、現地での映像が母から送られてきた。そこに映っていたのは、最終日、向こうのサッカーチームの少年たちとハグをして別れの挨拶をする甥の姿で、向こうのサッカーチームの少年たちは、白人も黒人もいて、同世代のはずなのに甥よりもはるかに身長が高く(甥は日本でも小さいほうだ)、それなのに甥はそれらとぜんぜん臆することなくやり取りをしていたので、なんだこいつマジで、と思った。
 なんで甥はこんなに屈託がないんだろう。僕の小学校5年生時代は、絶対にもっと屈託があった。屈託の塊と言ってもよかったと思う。甥の精神に、その母、すなわち姉のほう、つまりは僕を含むこちら側の一族の血は、一滴も入っていないのではないかと思う。こんなに屈託がない人間を、僕は他にひとりしか知らない。義兄だ。
 あんなにも屈託がない人間にとって、世界はどう見えるのだろう。屈託がない、人間関係で悩んだことがなさそうな人を見るたびに、初めてのセックスがさぞ早かったろうな、ということを思う。年頃になれば、狂おしいほど好きというわけでもない、それなりに仲よくしている女の子に向かって、「セックスってめっちゃ気持ちいいらしいから試してみねえ?」くらいの感じで、セックスを行なうのだろうと思う。そして50人も100人も相手にするのだろうと思う。もちろん義兄のその類の話など聞いたことはないが、そういうイメージを持っている。イメージというか、屈託を持っている。もはや屈託こそが僕のアイデンティティだ。
 甥の姿を見て、そんなことを思った、39歳の叔父であった。

 先日のおろち湯ったり館で、ベンチに全裸で横になるのがいつものことながら気持ちよかった、ということを書いたが、実はその際、青空に桜の花びらが舞うと同時に、とんびも旋回しており、目をつむって快楽を味わいながら、頭の片隅に、(もしもとんびが、俺のちんこを果実や小動物などと見間違えて喰いついてきたらどうしよう)という思いが去来して、少しゾクゾクした。この10日ほど前、鎌倉の由比ガ浜において昼ごはんを食べようとしたら、上空を何羽ものとんびが旋回する、という出来事があった。このときわれわれが食べようとしていたのは、奇しくも稲荷ずしであった。そうだ、稲荷ずしと見間違われるかもしれない、稲荷ずしとフランクフルトに見えてしまうかもしれないと思った。サウナ後の朦朧もあってかさらに思いは巡り、「おもひでぶぉろろぉぉん」で読んだ当時の文章に、「曾孫物語」というものがあり、これは今わの際の老人のもとに、遠方に住むはずの曾孫の少女たちが次々にやってきて、なぜか少女たちが老人の肉体に唇を寄せてくるのだが、それは実は生きながら鳥葬に処されている老人の最期に見た夢であった、というなんともいえないお話で、そのことも思い出した。そして、もしも食べ物に見間違われて外気浴中にとんびに啄まれたとしたら、それはそれでいいな、僕の最終的な将来の夢、性に関する象徴的な存在となり神社が建立されてほしい、の実現が一歩近づくかもしれないな、と思った。
 結果的に、とんびはやってこなかった。桜の花びらだけが亀頭に舞い落ちた。