2021年9月30日木曜日

スマホ嫌気・ファルマン芸・Myかご

 スマホに対してほとほと嫌気がさしている。今年の2月にスマホの人になって、7ヶ月あまりが経ったわけだが、もう嫌で嫌でしょうがない。
 スマホっていざ持ってみたら、「片手で持ててポケットに入る」という、タブレットに対して本当にそれだけしかメリットがないもので、それはスマホの小さいがゆえの扱いづらさをカバーできるほどの材料ではぜんぜんなく、日々ひたすらにストレスを溜めている。
 検索などの語句の音声入力って、している人間をとても気色悪いものとして見ていたが、スマホになって気持ちが理解できるようになった。画面の小ささから来る押し間違いがあまりにも多くて、あんなものキーボードとして成立していない。かといって僕はフリック操作というのもできず、できるようになるつもりもない。だから音声入力、ということに多くの人はなるのだろうが、機械に向かってしゃべるという行為の壁を、僕はいまだ越えられていない(機械の画面を指で触る、というのがやっと越えられたところだ)ため、それもできない。そうなるといよいよスマホは不自由だ。
 スマホにしたのは、長い時間にわたり電話を持ち歩かなければならない状況になったという理由があったからだが、諸般の事情によりその制約がなくなったため、頃合いを見てタブレットに回帰しようと思う。頃合いとはなにかといえば、ただただ金銭的な問題である。回帰という意味では、前に使っていたタブレットにSIMを移すだけで戻ることはでき、別に機能的にもそれで一切の問題はないのだが、そのタブレットはもうポルガたちのものになってしまっているため、さすがに「やっぱり返して」とは言いづらく、新しいものを買うしかないのである。
 子どもやファルマンのタブレットを目にするたびに、画面の大きさに憧憬の念を抱く。最低限この程度の大きさのものを覗き込むのでなければ、人の矜持というのは守られないのではないか、ということを思う。ガラケーからそのままタブレットはただの変わり者(ファルマン)だが、ガラケーからタブレット、スマホを挟んでの再びのタブレットには、説得力があると思う。

 ファルマンが、「マスクの外し方モノマネはどうだろう」といってくる。妻は何をいってきたのだ、と思う。
 妻曰く、政治家などが、会見の際にマスクを外すが、その外し方には個性があるので、その特徴を掴んでモノマネするとウケるんじゃないかと思う、とのことである。
 なんだその着眼点、とショックを受ける。HEY!たくちゃんのアゴものまね、ロバート秋山の体ものまねと、一部分に特化したモノマネというジャンルはたしかにあるけれど、マスクの外し方モノマネは、さすがにマニアックすぎると思う。ファルマンはあるときから、その視点でテレビを観るようになったから、この人はこう、というデータがあるのだろうが、一般の人にはその素養がまるでないものだから、それがどれほど特徴を捉えていようと、似ててウケる、という状態には絶対にならない。感想は常に「……ピンと来ない」だと思う。
 ちょっと妻はあまりにも、モノマネ界の高みに上り過ぎたのかもしれない。頂点に立つ人はいつも孤独だ。

 遅ればせながら我が家にも、というかスーパーでの買い物担当は主に僕なので、僕にも、というべきだが、My買い物かごがやってきて、そのあまりの便利さに腰が砕けそうになっている。前々から、使っている人を見かけるたびに、きっと便利なんだろうな、ということを感じていて、その気持ちの高まりが、ついにはかごを買うという行動に至ったわけだが、そちら側の人になってみれば、まだこちら側に来ていない人が信じられず、その無知蒙昧さが、不憫で居た堪れなくさえある。そこまでいうか。そこまでいうのだ。
 レジで読み取りと一緒にかごに詰めてもらえば、会計後にサッカー台で袋詰めをする必要がなく、そのまま店を出ることができる。そのときのサッカー台を素通りする瞬間、とてつもない快感がある。袋詰めしている人々を尻目に、というのがいい。まだ袋詰めしてんだ? と心の中ですごくバカにした笑みを浮かべている(実際に顔に出ているかもしれない)。
 世の中の人がみんなMyかごになれば、日々サッカー台で費やされている労力は減り、それは国の総計、人類の総計ではいかほどだろうと思う。さらにはサッカー台というスペースそのものが店からなくせるのだから、店としてはその分、売り場を広くしたり必要な設備を増やしたりできるわけで、とにかくいいことづくめだと思う。
 もっともこれは、スーパーに行く手段が必ず車である地方民であればこそで、仕事の帰りに最寄り駅近くのスーパーで買って帰るような都会の人間はどうしたってそんなことできないだろう。都会にも住み、田舎にも住んで、視野が広いので、そういうことも分かってあげる。一律に「レジ袋無料配布禁止、Myバッグを持ちましょう!」みたいな乱暴なことはいわないのです。

2021年9月12日日曜日

小銭入れ・尿道・ワクチン

 小銭入れを持たない人生だった。
 僕の人生はまだまだ続くが(まだ始まってもいないともいえるレベル)、まず間違いなく小銭入れを持つようになることはないだろう。電子マネーとかが発展して、そもそも小銭の出番が減っていて、まあ僕は電子マネー、目下のところてんで活用できていないのだけど、それであっても小銭入れを持つような状況というのはイメージしづらい。たぶん自動販売機で、缶コーヒーだの、煙草だの、そういうものを買う人にとっては便利なんだろうと思う。
 あとやっぱり基本的に、荷物をあまり持ち歩きたくない美学の男が、小銭入れというアイテムに帰着するのだと思う。その観念が僕にはまるでない。むしろその真逆の観念で生きている。
 しかし荷物をあまり持ち歩きたくないという美学の真逆であればこそ、こんな思いが湧く。
 小銭入れというアイテムそのものへの憧れ。
 小銭入れって結局、極小のポーチのようなものであるから、こじんまりとしていてとても愛しいのだ。そのため物欲としてそそられる。しかし小銭入れを小銭入れとして活用できる気質は、上記の通り僕にはまるでない。
 結果として柄が気に入るなどして衝動的に購った小銭入れは、ちまちました手芸用品を入れておくための入れ物なんかになる。しかし実際は、ちまちました手芸用品は、引き出しのクリアケースに入れておいたほうが絶対に使いやすい。
 今生の僕と小銭入れの縁は薄い。

 これは「BUNS SEIN!」に書く話のような気もするのだけど、そう長くなる気もしないので、こちらにさらっと記しておく。
 使っているボディーソープが、ノズルの開口部分でとてもよく固まる。「カタマラナイヨウニナルヤーツ」的な添加物を入れろよ、と思うが、それだけ実直な作りなのかもしれないな、とも思う。
 開口部分で液剤が固まっていると、ヘッドを押して中身を出す際、穴が変なふうに塞がっているために、思いもよらない方向に勢いよく液剤が噴射するので困る。これが本当に、意思があるのではないかと思うほどに、こちらがボディスポンジで受け止めようとしていない方向にばかり、液剤が飛んでいく。長年その状態が続いているので、こちらも学習して、ゼロ距離くらいの位置までスポンジを近付けてヘッドを押すのだけど、それでも液剤はスポンジをかいくぐる。前方に突き出たノズルの開口部から、そんな斜め後ろみたいな方向に液剤が飛ぶことあるかよ、というような現象が起る。奇想天外である。
 という、この話を前置きにして、ある日ふと思ったのだけど、要するに穴が小さいと、液剤の噴き出る勢いは増すわけで、これってまあ、ソープという、白濁粘液からの連想もあるに違いないが、ちんこだって当然この理論は同じわけで、射精も小便も、年を取ると若かった頃のような勢いがなくなるというけれど、それってつまり、尿道とかが使い込んだことでこなれて、体内的には昔と同じ量の同じ勢いの液体が、余裕を持って発射できるようになったという、つまりそういうことなんじゃないだろうか。勢いがなくなったことを減退と捉えるから哀しくなってしまうわけで、尿道のこなれ感と捉えると、途端に円熟味が出てくる。精液や小便の出方のおだやかさこそが、大人の余裕。

 やけにブログを書かない日々が訪れていたが、この日々の中で、新型コロナワクチンを夫婦ともども接種していた。ファルマンは1、2回目ともまあまあの副反応が出て、接種の翌日は寝て過ごし、それに対して僕は1、2回目とも、打った腕の筋肉痛めいた疼痛以外は、ほとんど副反応らしいものはなかった。つまりなんとなく事前から予想していた通りの結果だった。
 僕はファルマンからしばしば、正常性バイアスの高まりを糾弾されるのだけど、それぞれの人の世界の見え方、捉え方なんて、その人のそれまでの人生経験のことを思えば、矯正することなんて不可能だろうと、今回の副反応の結果で、改めて思った。ファルマンは副反応が起るだろうと思って、果して起った。僕は副反応はあまり起らないだろうと思って、果してあまり起らなかった。どうしたって、その確率から、経験則が生まれ、人格は形成される。
 病は気から、なんて慣用句は、時代に合わなくなったのか、昨今あまり使われなくなったような気がするが、正常性バイアス勢から見れば、不安がり勢に対して、思わずいいたくなることもある(でも今どきの時代性を踏まえ、いわない)。
 そして正常性バイアス勢には、致命的なウィークポイントがあって、不安がり勢には絶対に勝てないようになっている。それは、人はいつか必ず死ぬ、ということである。人はいつか必ず死ぬので、正常性バイアス勢の正常性バイアスは、事故なり病気なり、いつか必ず裏切られる。それに対して、不安がり勢が、不安がっていたものから裏切られることはない。その不安はいつか必ずやってくるからだ。
 結局なにがいいたいのか、自分でもよく分からない。どうせ感染しないよ、といってフェスに行くわけではない。もっとも心のどこかでは、感染しない気でいるし、感染しても症状は軽く済むだろうと楽観視している部分がある。その一方で、ワクチン接種の機会が与えられれば迷いなく受ける。そしてその副反応は軽いだろうと思う。小市民だな、と思う。