暑すぎるだろう。今年は新型コロナのせいで話題がぼやけてしまっているけど、コロナなんかに気を取られている場合ではない。いまはひたすら暑さについて思いを馳せるべきだ。暑さにばかり囚われるとどんないいことがあるのか、といわれたら別にないのだが、なんていうんだろう、この状況で暑さ以外のことを気にするということは、すぐ隣にマイクロビキニの女がやってきたのにぜんぜん胸の谷間に目をやることもなく教科書を読み続けるみたいな、そんな行為ではないかと思う。ちょっと違うかもしれない。
夏の暑さは、数字の上でも明確にこの10年20年の高まりが現れているが、それと同時にこの10年20年というのは、ひたすらに老いてきた年月でもあり(人生のほとんどは老いることだと喝破した)、ただでさえ体がしんどくなってくるところへ、暑さのパワーまでもが高まるのだから、もはや今後の人生において夏が逆に楽になるという目は一切ない。体のしんどさと、夏の暑さは、比例関係にあるわけではないが、今後も間違いなくひたすら両者とも高まってゆく。関係性はないけど両者とも高まっていくなんて、まるで相互オナニーする男と女のようだ。だいぶ違うかもしれない。
筋トレをしようしようと思いつつ、なかなかままならない。朝おきた瞬間からわりと体がだるかったりするのに、なぜそこから筋トレの実行へとたどり着けよう。それでいて摂取のほうも、食欲がわかなくて量が減っているので、盛夏というのはもう、どうしようもない。筋肉は分解される。体重は減る。そういうものなのだと割り切るしかない。
思えば、筋トレへと人をいざなうコピーとして、「夏までに理想のカラダ!」みたいなものがよく見られる。つまり1年単位で考えたとき、「理想のカラダ!」というのは7月1日あたりの状態で、そこからの真夏の2ヶ月間で、できあがった「理想のカラダ!」は滅びの美学のごとく崩壊してゆき、暑さがやわらいだ頃にふたたび筋トレに励めるようになって、そしてまた約10ヶ月後に迎える夏に向けてひたすら研鑽を重ねる、という周期になっているのかもしれない。だとすれば夏の肉体とは、リオのカーニバルみたいな、その日のためにその日以外の1年をがんばって生きるみたいな、そういうものなのかもしれない。そのわりに、別に夏だからといって肉体を披露するような機会はなかった。もっとも、そもそもそれほどの仕上がりでもなかった。なるべく破壊を食い止めたい。
相変わらず友達がいなくて、その友達がいないということについては、3週間くらい前にやけに哀しくなった数日間があったのだけど、ここ数ヶ月においてそのときだけであり、概ね気にならない日々が送れている。そんなわけで、職場での会話というものさえなくなって、ひたすらファルマンとばかりしゃべる、逆にいえばファルマン以外としゃべらない日々というのが数十日間続いた今、なんとなく思うこととして、伴侶との会話って、相手がどういう声を出すか、どういう内容のことを話すか、といった点において、チューニングがきわめて高いレベルで合っているため、互いにコミュニケーションを取るのがめちゃくちゃ楽で、その楽さは、苦痛だったり不快だったりする雑多な会話の中の止まり木としてはとてもいいものに違いないのだけど、なにぶん我々はほぼその止まり木にしか身を置いていないために、これってきっと長く続けたら、天敵がいないものだからのほほんと暮していたオーストラリアの生きものが、開拓者の連れてきた犬や猫によって駆逐されたような、そんなことになるのではないかという懸念がある。あとメンタル以外にも、表情筋を使わないでいると顔の肉が支えられなくなって衰えて見えるという話を耳にして以来、フィジカル面のそちらの恐怖も抱き始めた。最近はそれの防止のために、なんでもないときに意識的に顔をクシャーッとさせて、顔の筋肉を動かすようにしている。しかし実際に他人としゃべっていた時代でも、そこまで表情豊かな動きはしていなかったはずで、ともすればもう現役当時を超えているかもしれない。他人とぜんぜんしゃべらないのに表情豊かだなんて、人間関係という荒波の丘サーファーのようだと思う。