腕時計をなくす。ちょいちょい物をなくすことだ。
これまで着けていた腕時計は、スラップウォッチという、シリコン製のバンドに、懐中時計のようなものを嵌め込んで使うもので、これがまるごとどこかへ行ってしまったわけではなくて、ある日職場に着いて時間を確認しようと思って見たら、くぼみに嵌まっているはずの時計部分だけがなかった。なにかのはずみでそこだけ外れて落ちたらしい。すぐに駐車場まで、地面をつぶさに眺めながら戻り、車内も確認したのだが、見つからない。じゃあ家かな、と思うが家にもない。プールやスーパーでも訊ねたが届いていない。どうもこのまま出てこなさそうな雰囲気だ。
左手の腕時計がなくなると、本田圭佑よろしく、なんとなく左右でバランスを取るために着けていた、右手のただのシリコンバンド(世界のさまざまな問題について意識が高くてほっとけないので、何色も持っていて日によって着ける色を変えていた)も自ずと外す流れになった。
そうして両手ともになんにも巻かずに外の世界に飛び出し、労働なんかしてみると、ちょうど季節もあるのか、これが意外なほど身軽で快適で、あれ?となった。早いうちに新しい腕時計を調達しなければと思っていたけれど、ちょっと待って、腕時計……いる?という疑問が湧いてしまった。
いやいるだろう、大人としているだろう、ケータイとかで時間を確認するのは大人として様にならないだろう、という矜持がある一方で、でもお前のこれまでの時計、別に大人が着けるにふさわしいものじゃなかったじゃん、というもっともな反論も去来する。
腕時計、着けていてもぜんぜん見ないとかではなかったので、ないことに微妙な不便さはある。でも微かだな、という気もする。これから夏で、汗ばんだり、日焼けしたりの問題もあるので、そんなことを思うと、あんまりネットショッピングの触手が動かない。どうしようもない不便さが発生しない限り、あえて買わんでもいいかな、と思いはじめた。
先日公園に遊びに行った際にバトンを回していて、しかしただ突っ立ってバトンを回し続けても発展性がなく、去年はこの問題を解決するためにダンスや太極剣の本を読んだりして、残念ながらそれらはあまり僕のバトンライフの質の向上には寄与しなかったが、それでもステップを踏むことの必要性というのは切実に感じているため、その公園でのバトン回しの際も、回しながらちょっと跳ねたり動いたりなんかしていたのである。
するとそれを目にしたファルマンが、指をさして嗤ったのだった。
「なにそのうごき(嗤)」
芽を摘むとはこういうことか、という見事なまでの摘みっぷり。さすがこういうところは長女だ。言われた瞬間、それまで躍動していたバトンはさながら心電図のように静止し、僕はそっとバトン入れの中にバトンをしまった。哀しかった。
これは先日の話で、なぜ今ごろその話をしたかと言えば、昨晩またファルマンが、そのときの僕の動きのことを揶揄してきたからである。こう言われた。
「おどけきれないピエロみたいだった(嗤)」
へこむとはこういうことか、というくらい、見事にへこんだ。おどけきれないピエロ。僕のあまりのへこみっぷりに、ファルマンは慌ててフォローしはじめたが、完全に手遅れだった。ファルマンは「バトンを回してるときのステップがだよ、それだけだよ」と言うのだが、でも僕自身に感じ入る部分が大いにあり、おどけきれないピエロ、それは僕の心性そのものだな、たしかに僕はおどけきれないピエロだな、とうじうじした。
5月が終わる。やけに長かった。あの帰省が今月のことだとは信じられない。
相変わらず酒はほとんど飲んでいない。飲みたい気持ちもそう湧かない。暑くなってもぜんぜんビールを欲したりしない。見限ったものへの僕のあまりの淡白さに、ファルマンからは人としての情を疑われるほどだ。でも先日、スーパーでカップの天ぷらそばを見かけて、ああこれと日本酒をやったらしあわせだろうなあ、と少し誘惑に駆られた。こうしていちど断ってみて、フラットな立場で天秤にかけた結果、僕はアルコールの中で、ビールでもなく、ハイボールでもなく、日本酒がいちばん好きだったのだな、と分かった。なのでたまには飲もうと思う。たまになんだから、いいやつを小瓶で買ったりしよう。
2019年5月31日金曜日
2019年5月25日土曜日
バナナ・腕力・世代
バナナが好きだ。やけに好きだ。朝バナナダイエットなどの目的でバナナを摂取している、とかではなく、普通に味が好きなのだ。好物を訊かれたら、その日の体調によっては餃子ではなくバナナと答えてしまうかもしれない。そのくらい好きだ。なので家にはほぼいつもバナナがある。残り2本くらいになると次のを買う。バナナは基本的に途切れず家にある。僕はそこそこ重度のチェーンバナナーと言ってもいいかもしれない。ちなみに僕以外の家族は滅多なことがない限り食べない。テーブルの上のバナナのことを、食べ物として見ていない節がある。不思議だ。あんなにおいしいのに。
そしてこの話の流れで言うのもなんだが、バナナってやっぱりちんこを連想しやすい形状をしていて、そこがまた僕は愛しい。お店でひと袋いくらのバナナを選ぶとき、なるべく大きなものを求める理由は、ただたくさん食べたいからだけでなく、やっぱりそっちの要素も入っているだろうと思う。20センチにも迫ろうかという立派なバナナを買うとき、なんとなく男として誇らしい気持ちになる(逆に若い女の子は買いづらかろう)。
そんな大好きバナナについて、先日ある雑誌を眺めていたら、バナナの成分が前立腺肥大の抑制に効果があることが発見された、という話が紹介されていて、血糖値でもなく血圧でもなく前立腺に効果を発揮するところに、バナナの律義さがあると思った。さらにはその成分名というと、ここまで来るともはや確信犯ではないかという気もするが、「バナチン」だそうなので、そのことに思いを馳せるとますますバナナ愛は募る。
筋トレを続けているのだが、筋肉がつかない。あんなにせっせとやってるのにおかしいじゃないか、と感じていたが、実はぜんぜんおかしなことではないらしい。筋肉は2ヶ月程度では目に見えてついたりしないのだそうだ。でも筋肉が見た目的に変化なくても、毎晩ビールを飲んだり頻繁にカップ麺を食べたりしなくなったのだから、それなりに身体は締まったろう、という話なのだが、なんだかそれも変化に乏しい。あんな生活をしていても僕は不思議と太らずいたわけで、そのぶん摂生を始めても効果を得にくいのだった。
先日、そうは言っても力を使うようになったのだし、と思い、ファルマンに久々に腕相撲対決を申し込んだ。これまではとにかく歯が立たない感じだったけど、ちょっとは俺の上腕二頭筋も永い眠りから目を覚ましはじめたのではないか、と。それで手のひらを組んでみたら、腕相撲って力を入れはじめる前、この手を組んだ瞬間に、勝てる勝てないってすぐ判りますよね。あ、絶対に勝てない、これ絶対にすごい力が出る人の腕、というのがすぐ判る。もちろん負けた。往時と今とで、負け方になんの変化もなかった。「え、力入れてるの?」とまた言われた。怖い。俺の弱さも怖いが、妻の割れてる力こぶが怖い。肩にちっちゃいジープのせてんのかよ。
小学校高学年から中学時代にかけてウィンドウズ95やポケベルやPHSが普及してきた世代である我々に対して、10年くらい前、「これからの若者は物心ついたときから当り前にそれらがあった脅威のデジタルネイティブ世代だ」という話があったけど、そこがちょうどゆとり教育と重なったせいなのかなんなのか、10年くらい前に高校生とか大学生だった世代って、蓋を開けてみたらそれほど脅威の感じはなかったと思う。たぶん唱えるほうに、「脅威のデジタルネイティブ世代」というフレーズを言いたい前のめり感があったのだと思う。物心ついたときからデジタル機器があったと言ったって所詮それはガラケーだったり、ネットの主流文化もブログだったりしたわけで、まだ彼らは我々(昭和世代ということになるか)と地続きだった。真の「脅威のデジタルネイティブ世代」は、そのさらに下の世代なのだと思う。いま20歳前後以下の世代。あいつらは本物だ。もはや人類の質が違う気がする。IT革命前と後の人類で、うっすら種族が違う気さえする。「夜明け前」のような分断がここにはあるのではないかと思う。
そしてこの話の流れで言うのもなんだが、バナナってやっぱりちんこを連想しやすい形状をしていて、そこがまた僕は愛しい。お店でひと袋いくらのバナナを選ぶとき、なるべく大きなものを求める理由は、ただたくさん食べたいからだけでなく、やっぱりそっちの要素も入っているだろうと思う。20センチにも迫ろうかという立派なバナナを買うとき、なんとなく男として誇らしい気持ちになる(逆に若い女の子は買いづらかろう)。
そんな大好きバナナについて、先日ある雑誌を眺めていたら、バナナの成分が前立腺肥大の抑制に効果があることが発見された、という話が紹介されていて、血糖値でもなく血圧でもなく前立腺に効果を発揮するところに、バナナの律義さがあると思った。さらにはその成分名というと、ここまで来るともはや確信犯ではないかという気もするが、「バナチン」だそうなので、そのことに思いを馳せるとますますバナナ愛は募る。
筋トレを続けているのだが、筋肉がつかない。あんなにせっせとやってるのにおかしいじゃないか、と感じていたが、実はぜんぜんおかしなことではないらしい。筋肉は2ヶ月程度では目に見えてついたりしないのだそうだ。でも筋肉が見た目的に変化なくても、毎晩ビールを飲んだり頻繁にカップ麺を食べたりしなくなったのだから、それなりに身体は締まったろう、という話なのだが、なんだかそれも変化に乏しい。あんな生活をしていても僕は不思議と太らずいたわけで、そのぶん摂生を始めても効果を得にくいのだった。
先日、そうは言っても力を使うようになったのだし、と思い、ファルマンに久々に腕相撲対決を申し込んだ。これまではとにかく歯が立たない感じだったけど、ちょっとは俺の上腕二頭筋も永い眠りから目を覚ましはじめたのではないか、と。それで手のひらを組んでみたら、腕相撲って力を入れはじめる前、この手を組んだ瞬間に、勝てる勝てないってすぐ判りますよね。あ、絶対に勝てない、これ絶対にすごい力が出る人の腕、というのがすぐ判る。もちろん負けた。往時と今とで、負け方になんの変化もなかった。「え、力入れてるの?」とまた言われた。怖い。俺の弱さも怖いが、妻の割れてる力こぶが怖い。肩にちっちゃいジープのせてんのかよ。
小学校高学年から中学時代にかけてウィンドウズ95やポケベルやPHSが普及してきた世代である我々に対して、10年くらい前、「これからの若者は物心ついたときから当り前にそれらがあった脅威のデジタルネイティブ世代だ」という話があったけど、そこがちょうどゆとり教育と重なったせいなのかなんなのか、10年くらい前に高校生とか大学生だった世代って、蓋を開けてみたらそれほど脅威の感じはなかったと思う。たぶん唱えるほうに、「脅威のデジタルネイティブ世代」というフレーズを言いたい前のめり感があったのだと思う。物心ついたときからデジタル機器があったと言ったって所詮それはガラケーだったり、ネットの主流文化もブログだったりしたわけで、まだ彼らは我々(昭和世代ということになるか)と地続きだった。真の「脅威のデジタルネイティブ世代」は、そのさらに下の世代なのだと思う。いま20歳前後以下の世代。あいつらは本物だ。もはや人類の質が違う気がする。IT革命前と後の人類で、うっすら種族が違う気さえする。「夜明け前」のような分断がここにはあるのではないかと思う。
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