1月に干支4コマが終わっているなんていつぶりだろうと確認したら、2015年の未以来、実に4年ぶりのことだった。それ以降は押し並べて12月や11月までずれ込んでいる。つまり僕はこの3年間、それぞれの1年間のほぼずっと「干支4コマやらなきゃなあ」を頭の片隅に置いて暮していたのだ。なんという無駄な葛藤であることか。今年は違う。僕はその葛藤が頭にない11ヶ月半をこれから過すのだ。素晴らしい!
ちなみに4コマの内容について、ファルマンが理解してくれなかったので、ここに補足を記しておく。犬の口から「干支の交代」を告げられた猪および読者の頭の中には、まず猫が思い浮かぶはずである。しかし蓋を開けてみれば犬の相方として現れたのは猫ではなくアリクイで、猪は驚愕する。だがそれは実は羊の強制睡眠によって見させられた夢であり、猪は干支の交代含めて夢だったのかと喜ぶ。ところが壇上を見てみれば、そこには当初の発想通りの猫がいて、つまり5話までは現実、6話からが夢だったのであり、猪から猫への干支の交代はなんの問題もなく遂行され、それに思い至った猪は打ちひしがれ、うなだれる、というのが話の流れである。なにが解りづらいのかさっぱり判らない。ファルマンは11話4コマ目の、「……猫や」というセリフに、「えっ、これどういう意味?」と言っていた。もしかしたら読解力が皆無なのかもしれない。
ちなみに猪から猫への干支の交代は、漫画内のネタではなく、今後の人生で本気で目論みたいと思っている。猪年の人間として、心底からそれが猫年であればいいと思うのだ。猫がものすごく好きなわけではないけれど、猪よりはだいぶ好きだ。猪デザインのものを持つ気持ちにはならないが、猫デザインなら「干支やねん」と堂々と選ぶことができる。作中で犬にも語らせたが、犬・猫・鼠の並び的にも気が利いているし、「今年は猫年!」ということになれば経済も猪よりは活性化すると思う。だから猪年は猫年になればいい。ダウンタウンのふたりが兎年で、同じ兎年の人に出くわすと、「ウサギ団ぴょーん!」というギャグをするのが、なんだか羨ましいと感じていたが、猪では到底望めないそんな戯れも、猫ならば可能になってくると思う。だから本当に交代すればいい。その機運が高まっていけばいい。
ファルマンの祖母の通夜や葬儀に参列した。
参列と言ったが、あまり列は成さなかった。2日とも、親族控室で自分の所の子どもふたりと、ファルマンの妹の娘(ピイガよりひとつ下)の面倒を見ていて、ほとんど式には参加しなかった。もちろん喪服を着込んでいったわけだが、僕はトレーナーにエプロンの、保父スタイルでもよかったんじゃないかと思う。
ファルマンの母親は3きょうだいの真ん中であり、姉の子ふたり、弟の子ひとりという、ファルマンにとっていとこにあたる人たちがいて、この人たちとは僕は今回が初対面だった。年齢はとても順当で、姉の子ふたり(姉と弟)はどちらも年上だし、弟の子ひとり(男性)は年下なのだが、なんだが全員やけに貫禄があった。35歳のファルマンを中心に、全員30代ではあるのだが、なんか30代って、上(40代)にもう行ってしまおうと思えば行けるし、下(20代)に縋りつきたいと思えば縋れるしで、生きるスタンスによってすごく極端になるものだな、と思った。
通夜に際して、やくもに乗って大荷物(何人分かの喪服)でやってくる三女を岡山駅まで迎えに行くという役目を、自分から買って出た。家で集中してなにかできる状況ではなく手持無沙汰だったし、荷物持ちという大義名分で、滅多にできない「ひとり繁華街ぶらぶら」ができるではないかと色めき立ったのである。そんなわけで、三女が乗ってくるというやくもの到着時刻の、2時間あまりも前に岡山に繰り出した。世間は3連休の最終日だったので、岡山駅はとても賑わっていて、気持ちが盛り上がった。盛り上がったのだが、盛り上がったところで、特にすることがなくて、「あれ?」となる。そう言えば俺は岡山に、繁華街に出てきて、ひとりの気軽さで、そしてなにがしたいんだっけ? と途方に暮れる。結局手芸屋に行って布を買い、ドン・キホーテでチョコレートと調味料を買い、本屋で漫画を買って、あとはベンチでその漫画を読んで過した。「あれ?」と思った。なんか繁華街で時間を過すのがすっかり下手になっているぞ、と思った。でも次の瞬間、そう言えば高校大学の頃だって、僕はブックオフとか本屋とか東急ハンズを延々とぶらぶらしていただけで、それが上手だった時代なんてそもそもなかったではないかと気が付いた。繁華街に来ても結局こうなるだけなのだが、それでも定期的にそのことを忘れ、繁華街を愉しみたい願望が募り、アクションを起してしまう。そしてなんか落ち込む。