2019年1月28日月曜日

干支切手・野生・照ノ富士

 今年のお年玉付き年賀はがきの当選番号が発表されて、切手シートが3枚当たる。末等の切手シートは100枚中3枚の確率で、もちろん我が家には4人の総計で100枚も届かない(せいぜい25枚くらいだ)ので、そう考えれば少しだけ強運だと言える。とは言え切手シートではあるのだけど。
 ところでその切手シートについて、まだ引き換え前なのだけど、ものすごい情報を仕入れてしまった。それは、「今年の切手シートのデザインは猪じゃなくて猫」だということだ。ネットで画像を見たら本当だった。切手部分には2枚とも思いっきり招き猫が描かれていた。
 また出てしまった。発動してしまった。つい出ちゃう。加齢とともに確実に能力が高まってる。あるいは制御する機能が衰え始めている。パピトラダムスの大予言、予言蛇口のコックが緩み気味。チョポチョポ漏れ気味。
 まあ昨今の猫ブームと、猪の魅力のなさを考えれば、当然の帰結だとも言える。僕も実際どこまでも理屈で考えてあの漫画を描いた。
 ちなみに切手シートの切手部分に干支が描かれないことは珍しいことなのかどうかウェブ上で確かめたところ、前回そういうことがあったのは、昭和50年、1975年の卯年で、そのときは「桂離宮の水仙の釘隠し」がデザインされていた。生まれる前のことなので分からないが、たぶんそのとき日本は空前の桂離宮の水仙の釘隠しブームだったのだろう。
 というわけで、干支が切手にならなかったのは44年ぶりということになる。そしてこのタイミングは、明らかに猪が狙い撃ちされたと考えていい。亥年の人間の猪への愛着のなさを見透かされて、実行されたに違いないのだ。これを去年の犬のときにやってみたらどうだ。全国の偽善的な愛犬家たちが、それはもうキャンキャンキャンキャン大騒ぎしただろうことは火を見るより明らかだ。犬好き、猫好きのそういうところ! そういうところが嫌い! 猪に愛着を持たない亥年の人間として、干支の座なんか猫にくれてやろうと思っていたけれど、現実世界の猫好きの人間が喜ぶことを想像したら途端に嫌になってきた。エートゥー離脱問題で情勢を引っ掻き回す、俺はボリス・ジョンソン。

 週末、がくんと体調を崩していた。子どもが週の半ばに崩したので、それを見事に引き取った形である。体温もずいぶん高いところまでいって、これはこれは、という感じになった。平日まっとうに働いて週末に体調を崩すなんて、俺は社会人の鑑ではなかろうかと思った。
 それで、発症したのが土曜の夜だったので、とりあえず豪快に寝た。翌朝はまだ具合が悪かった。午後から近所の診療所で日曜診察をしているらしいという情報をファルマンが仕入れてくれたので、それまで再びひたすらに眠った。午後になり、ファルマンが「予約だけ先に入れてくる」と言って家を出ていき、少しして「第4日曜はやってへん……」と帰ってきた。もっと遠くの、市内の病院が持ち回りで行なう感じの休日診療ならあるけど、と提案されるが、あまりにも億劫すぎたし、なによりその時点でいくらか体が楽になっていたので、行かないことにした。そしてそれからも寝た。俺はいざとなるとこんなに寝ることができるのだな、と我ながら感心するほどに寝た。
 結果として体温は下がり、なんか具合も嘘のように良くなった。本当にただ寝るだけで治した。俺は野生動物か、と思った。あまりにもすっきりと治ったので、月曜日は休もうかとか、午前中に病院に行こうかなどと考えていたのが、雲散霧消してしまい、平常通り出勤した。俺の野生動物でありながら社会人の鑑でもあるという二面性。

 いろんなことがあった大相撲初場所は玉鷲が優勝だった。玉鷲の優勝! ということに関して特に感慨はない。その優勝について、「モンゴル勢7人目」というフレーズが使われ、しかしその歴代の6人のことを誰も教えてくれないので、自分で思い出すことにした。まず朝青龍。そして白鵬。日馬富士と鶴竜。あと旭天鵬の優勝はちょっと感動したので覚えている。これで5人。そして玉鷲が7人目。ろ、6人目誰やねん……、となった。でもネットで検索しても誰もモンゴル人優勝力士全7人を紹介してくれていない。仕方ないのでウィキペディアで歴代の優勝力士を見て確かめた。その結果、判明した。ああ、そうかそうか! とアハ体験のようなものが発生した。あー、すっきりした。そして答えは書いてやんねえのだった。

2019年1月16日水曜日

干支・参列・繁華街

 干支4コマが完了する。去年の12話、今年の12話、合計24話の戌亥編であった。
 1月に干支4コマが終わっているなんていつぶりだろうと確認したら、2015年の未以来、実に4年ぶりのことだった。それ以降は押し並べて12月や11月までずれ込んでいる。つまり僕はこの3年間、それぞれの1年間のほぼずっと「干支4コマやらなきゃなあ」を頭の片隅に置いて暮していたのだ。なんという無駄な葛藤であることか。今年は違う。僕はその葛藤が頭にない11ヶ月半をこれから過すのだ。素晴らしい!
 ちなみに4コマの内容について、ファルマンが理解してくれなかったので、ここに補足を記しておく。犬の口から「干支の交代」を告げられた猪および読者の頭の中には、まず猫が思い浮かぶはずである。しかし蓋を開けてみれば犬の相方として現れたのは猫ではなくアリクイで、猪は驚愕する。だがそれは実は羊の強制睡眠によって見させられた夢であり、猪は干支の交代含めて夢だったのかと喜ぶ。ところが壇上を見てみれば、そこには当初の発想通りの猫がいて、つまり5話までは現実、6話からが夢だったのであり、猪から猫への干支の交代はなんの問題もなく遂行され、それに思い至った猪は打ちひしがれ、うなだれる、というのが話の流れである。なにが解りづらいのかさっぱり判らない。ファルマンは11話4コマ目の、「……猫や」というセリフに、「えっ、これどういう意味?」と言っていた。もしかしたら読解力が皆無なのかもしれない。
 ちなみに猪から猫への干支の交代は、漫画内のネタではなく、今後の人生で本気で目論みたいと思っている。猪年の人間として、心底からそれが猫年であればいいと思うのだ。猫がものすごく好きなわけではないけれど、猪よりはだいぶ好きだ。猪デザインのものを持つ気持ちにはならないが、猫デザインなら「干支やねん」と堂々と選ぶことができる。作中で犬にも語らせたが、犬・猫・鼠の並び的にも気が利いているし、「今年は猫年!」ということになれば経済も猪よりは活性化すると思う。だから猪年は猫年になればいい。ダウンタウンのふたりが兎年で、同じ兎年の人に出くわすと、「ウサギ団ぴょーん!」というギャグをするのが、なんだか羨ましいと感じていたが、猪では到底望めないそんな戯れも、猫ならば可能になってくると思う。だから本当に交代すればいい。その機運が高まっていけばいい。

 ファルマンの祖母の通夜や葬儀に参列した。
 参列と言ったが、あまり列は成さなかった。2日とも、親族控室で自分の所の子どもふたりと、ファルマンの妹の娘(ピイガよりひとつ下)の面倒を見ていて、ほとんど式には参加しなかった。もちろん喪服を着込んでいったわけだが、僕はトレーナーにエプロンの、保父スタイルでもよかったんじゃないかと思う。
 ファルマンの母親は3きょうだいの真ん中であり、姉の子ふたり、弟の子ひとりという、ファルマンにとっていとこにあたる人たちがいて、この人たちとは僕は今回が初対面だった。年齢はとても順当で、姉の子ふたり(姉と弟)はどちらも年上だし、弟の子ひとり(男性)は年下なのだが、なんだが全員やけに貫禄があった。35歳のファルマンを中心に、全員30代ではあるのだが、なんか30代って、上(40代)にもう行ってしまおうと思えば行けるし、下(20代)に縋りつきたいと思えば縋れるしで、生きるスタンスによってすごく極端になるものだな、と思った。

 通夜に際して、やくもに乗って大荷物(何人分かの喪服)でやってくる三女を岡山駅まで迎えに行くという役目を、自分から買って出た。家で集中してなにかできる状況ではなく手持無沙汰だったし、荷物持ちという大義名分で、滅多にできない「ひとり繁華街ぶらぶら」ができるではないかと色めき立ったのである。そんなわけで、三女が乗ってくるというやくもの到着時刻の、2時間あまりも前に岡山に繰り出した。世間は3連休の最終日だったので、岡山駅はとても賑わっていて、気持ちが盛り上がった。盛り上がったのだが、盛り上がったところで、特にすることがなくて、「あれ?」となる。そう言えば俺は岡山に、繁華街に出てきて、ひとりの気軽さで、そしてなにがしたいんだっけ? と途方に暮れる。結局手芸屋に行って布を買い、ドン・キホーテでチョコレートと調味料を買い、本屋で漫画を買って、あとはベンチでその漫画を読んで過した。「あれ?」と思った。なんか繁華街で時間を過すのがすっかり下手になっているぞ、と思った。でも次の瞬間、そう言えば高校大学の頃だって、僕はブックオフとか本屋とか東急ハンズを延々とぶらぶらしていただけで、それが上手だった時代なんてそもそもなかったではないかと気が付いた。繁華街に来ても結局こうなるだけなのだが、それでも定期的にそのことを忘れ、繁華街を愉しみたい願望が募り、アクションを起してしまう。そしてなんか落ち込む。

2019年1月11日金曜日

ぬるま湯・冷蔵庫・穴埋編

 年末年始のぬるま湯で精神が相当に緩んでいたようで、新年1週目はやけにつらかった。へ、平日とは、このようなものであったか……! と衝撃を受けた。これまで数年間続けてきた感覚を9日程度で忘れるものかね、と思うかもしれないが、僕はわりと忘れるのである。感覚だけでなく、仕事内容も実際けっこう忘れていた。でも呆れないでほしい。会社までの道を覚えていて無事に出勤できたことを褒めてほしい。ぬるま湯に浸り続けていたい。生きているだけで称賛してほしい。

 新春セールで冷蔵庫を購入した。
 これまでの冷蔵庫は、結婚の前後くらいに買ったもので、だからもう10年くらい使っていて、冷えなくなったわけではないのだけど、水が漏れ出るようになっていて、寒い時期はまだ少なめなのだけど、やはり夏場は冷蔵庫的にも無理がたたるのか、床に敷いた新聞紙を毎日のように換えなければならないほどで、いい加減うんざりしていた。この分ではいつ本格的な故障が起ってもおかしくなく、そしてそれは無理がたたる夏場の可能性が高く、そうなったときの悲劇たるや、想像するだにおぞましいものがある(しかもきっと冷凍食品や肉を買い溜めした日とかに限って壊れるのだ)。そのため1年半くらい前からずっと冷蔵庫購入の臨戦態勢を取っていて、条件さえ整えばいつでも買うつもりがあった。そしてそのタイミングが、今般の新春セールでとうとう訪れたのである。amazon。だいぶ安かった。壊れかけとは言え、完全には壊れていない冷蔵庫を買い替えるのである。相当なお買い得感がなければクリックしない。今回はそれがあった。ゆるぎない「買い」だった。かくして冷蔵庫は、数日後に搬入と搬出の予定となっている。
 そしてその「注文を確定する」ボタンをクリックすると同時に、うっすらと予想されていた事態ではあるのだけど、もはやそれは「注文を確定する」ボタンではなくて、「古い冷蔵庫の不調を直す」ボタンだったのではないかと思われるほどに、ピタッと水漏れが止まる。水漏れなど、夏場も含めていちども犯したことなどなかったような顔だ。長く家にあり、住人の会話をずっと聞いていた電化製品の、こういうところ。

 物語なり、音楽なり、なんかしらのものを作り上げて、しかしいいタイトルが浮かばないとする。そんなときはタイトルを「火の鳥」にすればいいんだと思う。物語の場合、作中に火の鳥はもちろん、あらゆる鳥も登場しないパターンもあるだろう。そんなときだって堂々と「火の鳥」にしてしまえばいい。そしたらなんかほら、その物語を通しての登場人物の精神の昇華みたいな、なんかそんな風な部分のことを、読者が勝手に想像して、「ああ火の鳥な」と感じてくれるに違いない。「火の鳥」にはそんな効果がある。