2018年6月29日金曜日

耳すま・読書・穏当

 「僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をした」で、「僕の中の杉村」というフレーズを生み出した。世の中で当たり前とされることがなぜか自分だけうまく理解できない(したくない)ときに、「耳をすませば」の杉村の、あの神社での、雫への告白に繋がる、夕子の乙女心の機微が理解できないときのセリフ、「わっかんねーよ!」を思い出し、自分の中の杉村が発動した場面で用いる。
 要するにこれは、別に誰としているというわけでもないが、僕の心の中で捺されるLINEスタンプのようなものだな、と思った。それなのでLINEで「耳をすませば」のスタンプを検索したのだが、残念ながらなかった。なんでないねん! と思った。「わっかんねーよ!」以外にも、「耳をすませば」はスタンプにできるフレーズがいくらでもあるというのに! もしもあったら、初めてLINEスタンプというものを購ってやってもいいと思ったのに!
 というわけで、別にジブリの社員でもなんでもないのだが、もしも「耳をすませば」のLINEスタンプの製作を担当することになったら、という想定のもと、基本的な数であるらしい24スタンプのフレーズを選んでみた。
 1、「粗忽」(雫)
 2、「今日はいいことありそう」(雫)
 3、「好きな人いる?」(夕子)
 4、「ひでえなあ」(杉村)
 5、「さて、どうしてでしょう」(聖司)
 6、「コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」(聖司)
 7、「やな奴やな奴やな奴!」(雫)
 8、「彼氏?」(雫)
 9、「バカ!」(姉)
 10、「おーい、答えてよ」(雫)
 11、「あーあ。せっかく物語が始まりそうだったのに」(雫)
 12、「そうか、お嬢さんはドワーフを知っている人なんだね」(おじいさん)
 13、「お前の弁当、ずいぶんでかいのな」(聖司)
 14、「ちがう、お前なんかじゃない!」(雫)
 15、「ギリギリだぞ!」(杉村)
 16、「聞いて聞いて!」(杉村)
 17、「なによ、完璧に無視してくれちゃって!」(雫)
 18、「よろしい」(雫)
 19、「ほんとは自信ないんだ」(雫)
 20、「ちょっといいかな」(杉村)
 21、「なにその顔?」(雫)
 22、「この意味、わかるでしょう」(雫)
 23、「わっかんねーよ!」(杉村)
 24、「あんたのことが好きなのよ!」(雫)
 25、「そんな、俺、困るよ!」(杉村)
 26、「だって俺、俺、お前のことが好きなんだ!」(杉村)
 27、「えっ。や、やだ……、こんなとき冗談言わないで」(雫)
 28、「冗談じゃないよ。ずっと前から、お前のことが好きだったんだ」(杉村)
 29、「だめだよ、私は……、だってそんな」(雫)
 30、「俺のこと嫌いか? 付き合ってる奴がいるのか?」(杉村)
 31、「付き合ってるひとなんかいないよ」(雫)
 32、「でも……、ごめん!」(雫)
 33、「待てよ! はっきり言え」(杉村)
 34、「だって、ずっと友達だったから」(雫)
 35、「好きだけど、好きとかそういうんじゃ……」(雫)
 36、「ごめん、うまく言えない……」(雫)
 37、「ただの友達か? これからもか?」(杉村)
 38、「そうか……」(杉村)

 杉村のことが好きすぎて、映画の前半部で大幅に24を超過してしまった。まあこれ以降はそんなに杉村は出てこないので、このあとの名台詞と言えば、雫の母による「それって今すぐやらなきゃいけないのことなの?」くらいのものなので、なんとかなるだろう。

 読書熱がとても下がっていて、特に一般小説に関しては、読む意味がまったく分からない次元に突入していて、だから適当な新書なんかを読んでいたりするのだけど、こうなってみて初めて解ったこととして、これまでの人生で小説を読んでいて、「なに読んでるの?」と人から訊ねられ、特に読書が好きでもないだろうその相手に、「○○だよ」と小説のタイトルを答えたら、「ふーん」という気のない反応が返ってきて、どないやねん、と憤慨する、ということがたびたびあったけれど、あの質問というのは、本=実用書というイメージの下になされたものだったのだ。まさかフィクションなんか読むはずがない、そんなものは国語の教科書に載ってるやつであり、あるいはテレビドラマになる前の段階のやつであり、そういうんじゃなくて、本というのは、確固たる目的を持って、「人前であがらなくなる方法」とか、「お腹が凹む」とか、「お金がみるみる貯まる」とか、そういう情報がまとまったものだろう、だから、お前は今どんなことに興味があってどんな情報を求めているのか知りたくて本のタイトルを訊ねたのに、小説ってお前、なんだ、小説ってなんだ、目的はなんだ、目的なんてない? なんで目的もなく本なんか読むんだ、不審人物かお前は、という、そのくらいの齟齬が、僕のこれまでの人生の、あのやりとりの中には毎回あったのだ。それまで在った立場から離れてみて、やっとそのことが解った。

 トランプ大統領のサインを練習していることを、職場でこそっと人に打ち明ける。「へ、へぇー」という、ちょっと困ったげな反応をされた。「ですからなにかアメリカ大統領のサインが必要なときは言ってください。調印してあげます」と続けて言ったら、「うん。考えとく。どうかなあ、なにかあるかなあ」と、またちょっと困ったげな反応をされた。いい人だな。大人として穏当な対応と言うべきか。僕だったら面倒くさくてキレていると思う。

2018年6月26日火曜日

重機出動・ヒップホップ・阿久

 模様替えをしたあと、くしゃみが止まらなくなる。ハウスダストによるアレルギー性鼻炎の発症なのだった。その様子を見かねたファルマンが、僕の机周りの大々的な掃除をしてくれる。ファルマンの、あの本腰を入れた、集中モードのやつである。住民のSOSに対し、わが家でいちばんパワーのある重機が出動した形。家に帰って机を見て、感動した。僕が7ヶ月くらいかけて辿り着けたらいいなと思っていた状態に、1日でなっていた。ここからここまで全部いらないなー、と(思うだけ)思っていたものが、見事になくなっていた。ありがたい。こんなに机周りがきれいだと、パソコンで作成する文章もおのずと変わってくると思う。ああ花がきれいだし人々が愛しい。俺ってもともとそういうことを言いがちなタイプの人。

 ただクルクル回しているだけのバトントワリングを、人が見るに足る、エンターテインメントにするにはどうしたらいいか。それはやっぱり動きがあればいいのだろう。じゃあ動きとはなにか、ということを考えて、それはステップである、という結論に至った。なにしろ腕および上半身ではバトンを回すことをしているのだから、自由に動かせるのは足だけだ。つまり足さえいい具合に動いていれば、バトン演舞は成立するのである。というわけでダンスのステップが載っている本を図書館で求めた。しかしただダンスのステップと言うと、社交ダンス的なものばかりが出てきてしまった。そうじゃない。友達が欲しいし社交はしたいが、そのために僕は社交ダンスではなく、バトントワリングの演舞をする道を選んだのだ。社交ダンスの本に混じり、ポツポツと、ヒップホップダンスの入門本みたいなものが見つかった。ダンスが学校の教程になるとかで、小学生中学生向けのそういう本が何冊か出版されているのだった。それを借りた。中を見てみたら、ダボッとした服を着た小学生たちが、ジャカジャカした音が紙のページから聴こえてくるかのようなダンスを踊っていた。最初ちょっと頭がクラクラしたが、ステップはたくさん紹介されていたので、こちらの目的に合致しているのだと思う。なのでこれで練習しようと思う。ダボッとした服の小学生の写真を見ながら、がんばって練習しようと思う。これが僕の社交性ダンスなのだと思う。

 合唱曲のCDを聴いていたら、すごくいい歌があって、感動した。タイトルを「未知という名の船に乗り」という。メロディもいいが、なにしろ歌詞がいい。「未知という名の船に乗り希望という名の地図を見て夢という名のコンパスで未来を訪ねる冒険者」「未知という名の船に乗り勇気という名の帆を張って愛という名の舵を取り僕等はこぎ出す冒険者」である。なんだこれ、すごいじゃないか。なんだこの歌、と色めきたった。家に帰って検索したら、作詞が阿久悠で作曲が小林亜星だった。いい曲だと思ったら阿久悠、ということが、これまでの人生でもう30回くらいあった気がする。さすがだなあ。勇気という名の帆を張って愛という名の舵を取るんだぜ。たまらないな。

2018年6月22日金曜日

さみしさ・心地よさ・哀しさ

 夏至が来てしまった。日の長さのことをとても愛している僕にとって、夏至は1年で最もテンションの上がる日、かと思いきやそんなことはなくて、基本的にプラス思考の僕なのだけど、この件に関してだけは強烈なマイナス思考で、夏至のひと月くらい前からもう、夏至が来てしまう哀しみに浸っている。だからもう夏至当日なんかは、逆に哀しみのピークみたいなところがある。今日を限りに、これからどれほど陽射しが強かろうと、それはもう褪せた陽射しであり、ぼろぼろと崩れていく廃王宮のようなさみしさがある。
 さみしさと言えば、キャンプソングのCDに「山賊の歌」が入っていて聴いていたら、その1番の歌詞で、「雨が降れば 小川ができ 風が吹けば 山ができる ヤッホ ヤホホホ」のあと、「さみしい ところ」と続き、これでも十分に寂寥感があるのだが、僕はそれを「さみしい心」だと聴き間違えたので、本当に悲壮かつ寂寞とした山賊の心象風景の歌なのかと思った。たしかに山賊に身を窶すまでには、幼少期から起因するような、それはそれはつらい来歴があったに違いない。勇猛さや乱暴さは山賊の虚勢であり、その内側にはぽっかりと大きな穴が開いている。それを埋めるために略奪や襲撃を繰り返すけれど、彼の心の間隙を塞いでくれるのは金銭や財宝ではないのだ。深い。しかしなぜそんな重いテーマの歌をキャンプで唄わなければいけないのか。盛り上がるのか。
 話が逸れた。夏至の話だ。夏至は日の長さのピークであり、そして哀しみのピークだと言った。しかしピークを過ぎた日の長さは切ないが、哀しみもまたピークを超えたならば、これから徐々に日が短くなるにつれて、僕の哀しみは軽減されていくことになる。そう考えたら、僕は逆に日の短いのが好きなんじゃないだろうか。そんなはずないのだが、理屈的にはそういうことになる。不思議だ。化かされていたのは俺たちだったんじゃないか。

 父の日のプレゼントという名目で、マウスをもらう。タブレット用である。尖端がボールペン並みに細いタッチペンとマウスとで悩んだのだが、いろいろ考えてマウスにした。と言うか、タブレットってマウス使えるんだ、ということを最近知ったのだった。先日ふと目にしたムックで、タブレットにキーボードとマウスを接続して使っている写真を目にして、「えっ」となり、試しにパソコンで使っているマウスを挿してみたら、タブレットの画面にあの矢印のカーソルが出現したのでとても驚いた。お前の中にカーソルという制度と言うか概念があったのか、とタブレットの意外な一面を見た気がした。それで、マウスが使えるのならば、やっぱり指よりも断然マウスがいいのである。スマホよりも画面が大きいタブレットではあるが、それでもうまく目当てのポイントが押せない。どうしたって僕が2メートル30センチある大男で、指が太いという原因もあるのだが、なかなかにストレスが溜まっていた。あと文字をコピーしたいときのドラッグとかそういうのを長押しでするのも趣味じゃなかった。それがマウスならば、クリックして引っ張るだけである。ああ慣れてる。ああ心地よい。さすがに右クリックはできないのだけど(できりゃいいのに!)、それでも指でやるよりははるかに快適に操作ができる。というわけでマウスを手に入れることにした。マイクロUSBのポートはもうキーボード用で塞がっているので、マウスはブルートゥースというタイプのやつにした。届いたものを接続してみて、その快適さにうっとりした。マウスとキーボードという合わせ技によって、僕はもうほとんどタブレットの画面を触らなくて済むようになる。当たり前だ。パソコンのディスプレイなんか触るもんじゃない。阿呆か。これでやっとゴリラ類から卒業することができた。ただひとつ問題として、マウスの接続は頭になかったため、タブレットバッグにマウスが入らないというのがあるが、これもミニポーチの中にマウスを入れてそれをタブに引っ掛けることで解決した。ミニポーチはパンダの顔になってるやつで、中身はマウス! そんでもってこれは手作りのタブレットバッグ! この大きいのはキーボード! 折りたたみとかじゃない、打つとちゃんとカタカタ音がするマジのキーボード! こっち? こっちは手作りのバトン入れ! 中身はトワリングバトン!

 ドナルド・トランプのサインはだんだん上手くなってきているのだが、僕のトランプのサインの腕前が上達するのに反比例して、米朝首脳会談のときの世間の盛り上がりが鎮まってきている。サッカーのワールドカップが始まったこともあり、国際情勢のニュースはさっぱり鳴りを潜めている。あの日、共同声明に両者のサインが記されたとき、たしかに世間は湧き上がり、僕も興奮のあまりトランプのサインの練習を始めたわけだが、今はもうトランプのサインの筆致なんて誰も覚えていない気がする。哀しい。日大のピンクのネクタイも、トランプのサインも、出番が来ないまま萎れるばかりだ。なぜこうも出番が来ないのか。なぜこうも、「ネタ」を披露する相手が僕にはいないのか。哀しい。哀しくてやりきれない。

2018年6月19日火曜日

800円・キャンプ・光

 タブレット生活が始まってしばらく経ち、最初の熱意もほどほどに落ち着いて、いい距離感になった。依存することもなく、うまい具合に日常に組み込んだ感じがある。やっぱり専用のバッグを作ったのはよかった。これでリュックとかに適当に入れて過していたら、関係性もなんとなくだらしない感じになっていると思う。
 そしてタブレットが軌道に乗って思うのは、ガラケーのことだ。なんかしらの矜持により、スマホではなくガラケーとタブレットというスタイルを取ることにして、まだ持ち続けているガラケー。これはこれから一体どうなっていくのだろう。もう最近はアラームくらいにしか使っていない。Eメールの契約さえ止めてしまったが、それでも月々800円くらいは払っている。僕はアラームに800円を支払っているのだろうか。月々800円契約のアラームならば、もっといい具合に起してもらえないものだろうか。しかし果たしていい具合に起すとはどういうことだろう。パンツの中に入れておいて、時間が来たらバイブするようにすればいいのだろうか。なるほどタブレットやスマホはパンツの中には入らないだろう。それが折り畳みのガラケーならば、なんとかなる。そうか、それが800円の価値か。やらんけども。

 このところにわかにフォークソングに嵌まったり、先日のカラオケで「キャンプでホイ」を唄ったりしたのには、実は確固たる理由がある。
 夏にキャンプをするからだ。
 今年は横浜帰省が夏ではなくGWになったため、自動的にお盆あたりの帰省は島根ということになり、そこからは本当にオートメーションで、両親、わが家、上の妹一家、下の妹というフルメンバーでのキャンプの予定が組まれていたのだった。
 キャンプと言えば、ファルマンの両親は元ワンダーフォーゲル部であり、これまでも冗談とも本気ともつかない感じで誘いを受けていたのだった。そしてそれをいつも律儀にお断りしていたのだが、なんか今回は間隙を縫うかのように、しれっと計画が立っていた。意向を訊ねたら断られるから、いっそ訊ねなければいい、ということを喝破したのかもしれない。
 そして決まったら決まったで、意外とそれほどの抵抗感も湧かなかった。もちろんキャンプと言っても、布のテントで寝るようなそういうんじゃなく、電気、水道、ガスはもちろんのこと、たぶんワイファイだってあるような、バンガロー的な施設で泊まるようなので、それならそこまで拒むほどのこともない、というのもある。それどころか、非日常体験として、にわかに愉しみにさえなってきた。そんなわけでの、フォークソングだったり「キャンプでホイ」だったりしたわけである。
 さらにはいま、誰に頼まれたというわけでもないのだが、勝手に「キャンプのしおり」の製作も始めている。「マイムマイム」の踊り方を中心に、僕が思うキャンプの心得(したことがないので知らない)を記し、人数分印刷し、冊子の形にして、各人に配るつもりである。はしゃいでんのか。

 「部長、それセクハラです」という訴えに対して、「いいや、これはセクハラなんかじゃない。ちょっとしたレイプなのだよ」と答えれば、逆に許されるんじゃないか、どこらへんに許される要素があるのかと言えば、自分のしでかしたあやまちを小さく言おうとせず、逆に大きく言うあたりに、とても分厚い靄の中に一閃だけ覗く光のように、一縷の望みがあるのではないかという気がする。たぶん気のせいだと思う。

2018年6月13日水曜日

戦後・首脳・監督

 近所を歩いていたら、公共の施設の壁に、昔の街の写真が展示されていて、なにしろ5年ほど前に移り住んだペーペーなので、「懐かしー」みたいのはなかったのだけど、それなりに興味深く眺めた。しかし現在から半世紀前くらいまでの写真が並んでいたのだが、そうして見たとき、その中にあった1985年の写真というのが、もう明らかに戦後、とは言わないまでも、高度経済成長とかのほうの括りに入っていて、なんだか衝撃的だった。1983年に生まれて、戦後の面影も高度経済成長も、まるで無縁の、現代そのものを生きてきた気がしていたけれど、気が付けば若者からはそっちのグループに括られかねない年代になってしまっていたのか。戦後と言えば、僕はたしか小学生くらいのときに、母に向かって、「ママの子どものときは戦後だったんでしょ?」と無邪気に訊ね、「失礼な!」と憤慨されたことがある。1945年は昭和20年。母が生まれたのは29年。母が10歳の頃には、もう戦後20年くらいだったわけで、実際に戦後の雰囲気はもうなかったのかもしれないが、30年あとの世代から見れば、「いや、それ戦後でしょ(笑)」みたいな感覚がある。しかしその(笑)は天に向かって唾を吐く行為に他ならず、それとまったく同じ現象が、いま自分にも起ろうとしている。展示されていた1985年の写真は、色褪せ、ぼやけ、そしてこの街がかつて特にそうだったんだろうが、背景に高い建物がひとつもなかった。焼け野原か、と思った。

 米朝首脳会談がなされる。すごいことだと思う。ちょっと興奮している。具体的な数字がないとか、そういうことを言う人々がいる。よく言うな、と思う。批判するのは簡単、という言葉をこんなにしみじみと噛み締めたことはない。米朝の首脳が初めて対面したのだ。もうそれだけでいいじゃないか。会ったことが大成果だろう。初めて会った席で「いついつまでにこれやれよな」などと言うほうがおかしい。「会えてよかった。これからよろしくやっていこうぜ」という感じの共同声明は、だからとてもよかったと思う。もしかすると世界はこのまま平和になるんじゃないかという希望さえ抱いた。それを浅はかだと批判するのはやっぱり簡単なのだけど、これまで対面することなんて考えられなかった両国の首脳が握手するのを見て、人類がいい方向に進んでいることを信じたとして、なぜ批判される筋合いがあるのかと思う。
 なんかトランプいいわー。パワフルさがいい。活気があるじゃないか。ああいう人は貴重だ。なるほどアメリカ大統領あたり、なっとけばいい。波及効果でいろんな所が盛り上がる。
 大統領令も発動しまくりで、政治的にそれがどうなのか、ということはもちろん知らない。けれどひとつだけ思うこととして、今回の共同声明の調印でもそうだったが、トランプのサインかっこいい。なんかすごくギザギザしている。すっかり気に入ったので、昨晩は会談のニュースを眺めながら、繰り返しトランプのサインの練習をしていた。その結果、なかなか上手になった。よく見ればただの筆記体表記ではあるのだけど、Dで始まり、pで終わる氏名を、本当に尖がらせてギザギザに書く。その感じがかっこいい。あともう少し練習を積めば、代筆を務めることも可能だと思う。今後アメリカ大統領の調印が必要な場面があれば、気さくに声を掛けてもらいたい。

 日大の話題が本当に過去の物になった。こうして世間は出来事を忘れ去り、内田という人もしれっと日大の中で生き残り続けるのだろうと思う。それは別にいい。悔しいのは、悪質なタックルコントをやり逃したことである。あの週、あの瞬間にそれができていれば、絶対にウケたに違いないのだ。ピンクのネクタイまで準備して、頭の中で何度もシミュレーションしては、自分で笑いそうになったほどの傑作コントだったのだ。それが日の目を見ることなく終わった。哀しい。そして申し訳ない。ちゃんとこの世に生み出してやることができなかった。これは僕の責任だ。僕の人間関係の乏しさがすべて悪い。反省したい。その反省の会見をこそピンクのネクタイで臨みたい。無理か。これは無理か。さすがに笑いに繋がらないか。もう内田監督と関係ないしな。ああ、悔しい。僕のイメージだと、年末の東急ハンズには、ピンクのネクタイと白髪のカツラの、内田監督なりきりセットが並ぶ予定だったのに。僕がそこまで育てるつもりだったのに。

2018年6月9日土曜日

CD・指輪・車内

 バトンを回すときにイヤフォンで聴く曲というのを模索している。いま音楽を聴く基準の大部がそこに行っていると言ってもいい。音楽には2種類ある。バトントワリング映えするものとしないものだ。そしてその曲はそのまま、いつ誰に披露するとも知れない、僕によるバトントワリングの演舞において使用するBGMになるのである。
 最近のヒット曲として、「世界の愛唱歌」的なCDに収録されていた、中国と、スイスと、ルーマニアの合唱曲というのがある。僕のバトントワリングの演舞を観る(はめになった)人たちは、そんなに上手いわけではない30代中盤の男性のバトントワリングを観るという、もうそれだけで十分に不条理な気持ちになるだろうところへ、さらによく判らない言語の、聴いたことのない合唱曲が被さってくると、それはもう眩暈がするほどの幻惑効果があるのではないか、観客の皆さまに無駄な時間を過させるせめてもの罪滅ぼしとして、頭がふわふわしてちょっとしたトリップ効果くらい享受させられればいいと、そんな風に思うのだった。
 さらにはそのあと「世界のフォークダンス」的なCDを手に入れて聴いたら、それもまたよかった。フォークダンスのなにがいいって、フォークダンスは絶対に集団で接するものであるという、その感じがいい。iPodに取り込んで、僕はひたすらひとりでイヤフォンで聴くわけだけど、それがフォークダンスだと、ひとりで聴いているんだけどひとりじゃないというか、30億年前のひとつまえの地球文明のときにはいたたくさんの友達たちとこの曲で一緒にたくさん踊ったよな、みたいな、そんな気持ちになる。それですべてが懐かしくなって、自分の宇宙生命(コスモゾーン)の一部になりたくなる。そんな幸福感をもたらしてくれる。だからバトントワリングの演舞のBGMにもいいんじゃないかと思うが、せっかくフォークダンスソングを流して、誰かがそれを観てくれるのなら、その誰かたちとフォークダンスを踊ったほうがよほどいいとも思う。

 ファルマンとお揃いの指輪を買う。8月で結婚10周年だから、という理由ではなかったのだけど、ちょうどいいからそういうことにしてしまってもいいような気もする。
 結婚するときに結婚指輪を買って、僕はそれ以来ずっと着けていて、先日ちょっと外そうとしたら皮膚と癒着していて取れなかったくらいなのだけど、ファルマンは買ったときからちょっと緩めだったのが、出産を経てますます指が細くなったとかで、とても日常で着けられないほどにブカブカになってしまい、ずっと仕舞いこんでいた。だから僕だけが妻を失った後も貞節を守る寡夫のようになり、ファルマンは独身貴族を決め込んで夜な夜な盛り場へと繰り出すという、そのような図式になってしまっていた。それが今回やっと是正された。ただし僕はこの10年間左手の薬指に着け続けた指輪を外したり移動したりする気はさらさらないので、新しい指輪は右手の薬指に着け、ファルマンは着けられない結婚指輪の代わりとして左手の薬指に着けるので、やっぱり統一感がない。ともすれば僕には左手の薬指の指輪とお揃いの物を着けている妻がいて、その一方で右手の薬指のそれで示唆されるように恋人の存在があり、その恋人すなわち愛人は、その愛執により正妻の座を夢見て左手の薬指にそれを着けているという、そういう図式にも取れる。
 ちなみに新しい指輪は蛇のデザインで、頭からしっぽまでがそのまま輪になり、指に巻きついているような形になっている。頭としっぽは繋がっておらず、力を込めればいかようにも輪の大きさを変えることができる。だから商品はワンサイズで、それぞれが指の太さに合わせて調整したのだった。
 なぜ急に蛇なのかということだが、ちょっと前に読んでいた本で、「向かい干支」というのを知り、猪の我々のそれが蛇だったからである。蛇でよかった。蛇は十二支の中でもデザイン性が高く、特に指輪なんて蛇のいちばんの得意ジャンルであると思う。これが逆であったら、向かい干支の猪には手を伸ばさず、素直に干支の蛇のグッズでなんとかしようと思っただろう。かっこいい猪デザインというのはちょっと無理がある。だとすればこの猪⇔蛇の向かい合わせラインというのは、基本的に猪→蛇の一方通行であると思う。いつも貰ってばかりで悪いね。

 もう取り立てて言うほどでもなくなったが、また出張に行っていた。目的地はいつも同じなので、ずいぶん慣れた。もっとも移動時間でタブレットにキーボードを繋いで文書を作成するという当初の目論見は、いざ新幹線の座席で、隣に知らない人がいると、なかなか恥ずかしくてできたものではなく、結局そのため読書が中心になっている。今回は持っていった一般小説がひどくつまらなく(「三国志」は持っていかなかった)、しかも目測を誤って滞在中にすべて読み終えてしまい、帰り道でひどく往生した。ファルマンに相談したら、「電子書籍にしたら」と、尤もな進言をされた。そうか、電子書籍は何冊でも移動先に持っていけるのか。便利だな、それ。
 帰りの新幹線では、東京駅で崎陽軒のシウマイ弁当とビールを購い、食べた。前回の出張の際、新横浜から乗り込んできた隣の乗客がそれをして、心の底から羨ましく地団駄を踏むほどだったので、そのリベンジである。そしたらシウマイ弁当、マジでよかった。実はこれまでほとんど食べたことがなかったのだが(あざみ野駅でも売っているというのに)、あんなにいいものだとは思わなかった。俺の買ったこれだけ当たりのやつだったんじゃないの、というくらい多幸感あふれる弁当だった。特にあのタケノコ煮。あれあんなに入れてくれたら、ビールのあと日本酒も十分に行けてしまうじゃないか。こんどはちゃんとそこまで準備しよう。帰宅時にはもうベロベロになってしまうかもしれない。あと、あんずはいらない。ちょっと齧ったが、ぜんぜん意味が解らなかった。