2025年2月22日土曜日

ポルガショート・ティーン毛髪・スマ落と

 ポルガが美容院で髪を切った。
 これは一般的にはなんということもないことかもしれないが、わが家にとっては非常に大きな出来事である。ポルガが美容院で髪を切ったのは、これがたぶん人生で2度目。最初は小学校の卒業式を前に、祖母までを含めた周囲がさんざん説得したことで根負けして行ったのだった。しかしそのときの体験が本人的にだいぶ不快だったようで、そこからさらにこじらせて、とうとう今日まで来たという次第であった。そのためこれまでは、あまりに髪が伸び、乱れてくると、ファルマンがなだめすかして椅子に座らせ、なんとか見苦しい部分だけを素早く刈り取るという、そういう感じでやり過ごしてきたのだった。
 それがどうして唐突に、本人から美容院に行くと言い出したのかと言えば、どうやら学校の友達の美容院の話を聞いて、行ってもいいと思うほうに針が振れたという、それくらいの理由のようで、これは今に始まったことではないけれど、親がどれほど口を酸っぱくして言うより、友達による何の気なしの、特に「おすすめ」というわけでもない、ただのトークのほうが、よほど心を動かす効果があるようで、もちろん自分のことを顧みても、たしかにそうだった面はあるけれど、親というのは切ないものだな、としみじみと思った。
 しかしそれはさておき、プロの手で、「ただ伸び、手入れという概念もない」状態であった髪は、まさかあの内側にこんな鮮やかなものが隠されていたのかと驚くような、形のきれいなショートカットとなった。長かった髪が、ともすれば僕よりもコンパクトな短い髪になったというのに、印象としては大人っぽくなった。中学2年生も終盤であり、ポルガはここではっきりと、成長の階梯がひとつ上がったのだな、と思った。

 一方で僕はまだヘアスタイルに関する逡巡を続けている。そこに関して僕の意識はまだティーンなのかもしれない。
 先日お店でヘアカラーの棚を眺め、こんな色もいいかなと思ったりもしたのだけど、なにしろ現状の頭がツートンになっているため、染色をするためには、まずはブリーチで全体を均一にしたほうがいいよな、などと考え出すと、億劫だし、また頭皮へのダメージのことを思うと、なかなか踏ん切りがつかないのだった。間違えた、もっとティーンらしく言うべきだった。踏ん切りがつかないんだぜ!
 しかし黒髪の比率が高まってきたことで思い出したのだが、前髪が風圧などで分かれたとき、僕は遺伝的におでこが広いので、髪が黒いとおでことの境目が明瞭で、そしてそれがだいぶ上のほうまで続いているのが可視化されると、われながら鏡を見たときにぎょっとするので、それを避けるためにも、髪の毛の色は肌の色と若干まぎれるような、淡い色のほうがいいのだった。このおでこの広さに関しては、本当に誤解を受けやすいのだけど、昔からこうであり、進行しているという事実は一切ない。ファルマンは20歳の付き合いはじめの頃、僕のおでこの広さに少しびっくりしたそうだが、今現在、「でもあの頃とずっと変わんないよね」と言う。しかしそれは20年間一緒にいるファルマンだから証言できるのであって、それほど深い付き合いでない人にとっては、僕は「だいぶ後退が進行している人」ということになってしまう。それを避けるために、やはりヘアカラーは必須であると心得るのだった。間違えた。心得っぜ!

 不思議な出来事があった。
 労働の帰りにスーパーに寄って買い物をし、帰宅したら、スマホがなかった。車だろうと思い、駐車場に戻って車内を探すが、ない。ファルマンに電話を掛けてもらうが、家でも車でも振動している音は一切聴こえない。これはスーパーで落としたな、となって、スーパーに電話をするが、自動音声になってしまう。しかしまだ営業時間中なので、仕方なく再び店に戻り、店員に訊ねた。日本の治安を信頼しているので、てっきりこれで解決だろうと思ったが、返事は「届いてません」。マジかー、となり、見つかった場合の連絡先としてファルマンの電話番号を伝え、店を後にする。それから先ほど駐車したあたりの地べたなどを探すが(他の車も多数ある中で車体の下を覗いたりする行為はなんとなくびくびくした)、もう暗いこともあり、見つけられない。仕方なくそのまま家に帰るよりほかなかった。「見つからなかった」と伝えると、ファルマンは「えー」と戸惑ったあと、「たしかGoogleでパソコンと繋がってるんなら、スマホの位置が分かるんじゃなかったかな」と言い出し、僕のパソコンを起動すると、その操作をしてくれる。すると本当に僕のスマホの現在地というものが表示され、それによるとその位置は、あのスーパーから大きな道を挟んだ反対側の別のお店の脇の歩道のあたり、ということであった。この日の帰りにはあのスーパーにしか寄っていないので、そんなはずないだろう、GPSの機能はすごいが、しかし少々の誤差はあるようだ、これはやはりスーパーの駐車場に落とし、まだそこにあるということだろうと判断し、仕方なくみたび、スーパーへと車を走らせた。今回はファルマンのスマホを借りてきていて、駐車場に着いたところでポルガのスマホに連絡した。Googleの機能には、位置情報のほか、「音を鳴らす」というのがあるそうなので、それをやってもらう。しかしなにも鳴らない。そもそも音がどういう音なのかも分らず、蚊の鳴くような音であれば、屋外では聞き取れないだろう。なかなかの絶望感だった。なにしろ、暗く、寒く、さらには雪混じりの雨だ。最悪だ。スマホを落としただけなのに! もう若干やけくそな気持ちになり、そんなはずがない、大きな道路を挟んだ反対側の、GPSではそこに落ちているとされるほうへも行ってみる。こんなところにあるはずもないのに。ファルマンのスマホを持つ手は凍りつきそうで、いよいよつらい。意味が分からん、ああめんどい、新しいスマホを買ったり、データをどうにかしたりするの、マジでめんどい……と項垂れていたところへ、ピッピー!ピッピー!と、あまり聞き慣れない音が鳴っていることに気付いた。大きな道路沿いなので、しばらくそれが自分に関係のある音だと認識できなかった。音の大きくなるほうに進み、地面に目を走らせると……あった! 暗い中、ダークグリーンのスマホケースの背面を向いていて、音がなければ絶対に気付けないような感じで、ガードレールの根元らへんに、僕のスマホはポツンと落ちていた。拾って、起動させると、スマホはなんだか「平然」としていた。嘘だろ、と思った。スーパーの駐車場からこの位置へ、第三者の恣意なく移動するはずがない。「すごくおそろしかったですよ~、ご主人さま~」と泣きつくのが正しいだろう。お前はなぜ平然としているのか、と思った。
 なにはともあれ、無事に戻ってきてよかった。壊れてもいなければ、SDやSIMをどうにかされた様子もない。ただ、移動していた。不思議である。こういうことかな、と思うのは、悪意というほどでもなく、お、スマホ落ちとるやん、なんか使えるんちゃう、と拾った人間が、ファルマンのスマホからの繰り返しの着信表示を目にし、そこでやっと厄介さに思い至り、その場に棄てたという、そんなパターンだ。ちょうどそんな距離である。証拠隠滅のために側溝などに棄てられていたらおしまいだった。これは不幸中の幸いである。そしてとにかく、Googleが尊い、とも思った。Googleのふたつの機能がなければ完全にお手上げだった。夜が明けて明るくなり、もしも通行人が警察なりに届けてくれたとしても、短時間だったからスマホは「平然」としていたのであり、ひと晩あの雨雪に晒されれば、さすがに息の根が止まっていたのではないかとも思う。Googleに足を向けて寝られない。一生かしずいて生きようと思う。みんなBloggerやりなよ、と宣伝もしたい。GoogleがBloggerを宣伝してもらって喜ぶのかどうかは知らないけれど。

2025年2月12日水曜日

髪の企て・集団Tシャツ・哀しい色やね


 思えば髪型が安定しない系男子である。形そのものは、「なんとなく丸い感じ」というのが通底しているが、その長さや色が、いつまでも固定しない。行きつけの理容店がないというのも要因かもしれない。世の中の男性は、2ヶ月にいちどそこに行くと、「いつもの」という注文で、それまでの2ヶ月分がリセットされるという、そういう仕組みになっているようで、楽でいいなあと思うと同時に、そんなのめちゃくちゃつまらないな、とも思う。
 いまの僕は、たしか晩秋くらいに脱色をし、それっきりなので、プリンを超えて逆ポッキーくらいの感じになっている。表面は金だが、少しかき上げれば中はほぼ黒い。長さは、少し前までわりと長かったが、毛先が見苦しい感じになったので、ファルマンに全体を梳いてもらうのと一緒に、その部分のカットを頼んだことにより、短くも長くもなく、「普通」である。
 それでこれからどうするつもりなのかと言うと、あくまで現時点での気分だが、ここでひとつ、本腰を入れて髪を伸ばしてみようかと考えている。乱れた毛先を切ったのもその布石だ。「髪を切らない」という考え方で、ただ伸ばしても、どうやら長髪というものは成立しない。41歳になり、何度か失敗を繰り返したことで、ようやくそのことに気付いた。長髪を成立させるためには、髪をいたわり、世話してやる必要がある。長くて、荒れている髪は、目も当てられない。長い髪は、きれいでなければ成り立たないのだ。
 そのため先日から、ヘアケア的なことを心掛けて暮している。ドライヤーも温風のあと冷風で仕上げているし、就寝時はヘアキャップを被っている。ヘアブラシも、豚の毛のものを使いはじめた(ネットで検索したところ、豚の毛がいいということなので、ファルマンに「買ってもいいか」と訊ねたところ、「豚の毛のブラシならある」と言って、引き出しの奥から出してくれた。なにかの折に人からプレゼントされたらしいが、本人が使っている姿はいちども見たことがない)。
 まだそこまでの変化は見て取れないが、これから髪が長くなってきたとき、今度こそ金谷英美(「ガラスの仮面」でマヤとともにヘレンケラーオーディションを受けたごつい少女)のようにならず、サラサラのきれいな感じになったらいいと思う。今年の夏は俺、ポニーテールで過そうと思うよ。

 まだ多少気が早いのだけど、Tシャツのことに思いを馳せている。所持しているTシャツが、わりとベテラン揃いになってきていて、くたびれもそうなのだけど、だいぶ飽きが来ているので、今年はちょっと新物を仕入れたいな、と考えている。
 それでいま目をつけているのが、クラT的な、特定の集団によるオリジナルのプリントが施されたTシャツだ。僕自身はそういうのに縁のない半生を送ってきて、そういうのを作ってみんなで着るような集団に実際に属したいと思ったこともないけれど、その集団が、実際には僕が所属していない、もちろんTシャツが実在するということは実在するのだけど、僕にとっては架空も同然というような、縁のない集団であれば、そのオリジナルデザインTシャツを着るというのも一興なのではないかな、と思ったのだった。この嗜好は前からあって、クラTならぬクラショーを自作したこともあった
 というわけで先日から、フリマサイトでその手のTシャツを探している。ところがなかなか思ったようなものが出てこない。クラス全員のファーストネームが列記されているようなものがいいのだけど、そういうのはさすがにあまり出品されないようだ。部活のTシャツというのはそれなりにあるが、やはり体育会系が多く、そうなると素材がポリエステルなどのスポーツニットになってしまうので、それも意にそぐわない。
 まだ夏まで間があるので、気長に探そうと思う。

 三女がコツコツと実家の整理をしていて、巣立っていった姉たちが置きっ放しにしているものなどを、勝手に捨てるわけにもいかないので、たまに渡してくるのだった。
 先日はそれで、ファルマンの小学校の卒業文集というものがわが家にやってきたので、ファルマン以外の家族3人で、大笑いしながら眺めた。内容は、作文と、全員が同じ項目に答える質問コーナー。作文ももちろんおもしろかったのだが、そちらは長いので割愛するとして、最もファルマンらしさが出ていたのが、質問コーナーの中の、「好きな色は?」という問いに対する答えだ。これはまあ、質問自体が、訊いてどうする、という性質のもので、他の子の回答を見ると、「あか」とか「くろ」などと書いてあり、それ以外どうしようもないわけだが、それにしたってあまりにつまらない設問なのだった。
 でも卒業生の中にひとりだけ、本当にひとりだけ、この質問に対し、「おもしろく」答えていた児童がいたんですね。誰もがボケようがないとあきらめていたお題に、その子だけがあざやかにボケてみせたのです。それがもちろん、われらがファルマン。
 小学6年生のファルマンはこう答えていた。
「海の色、空の色、草の色」
 さすがとしか言いようがない。信じられない。こんな華麗なシュート見たことない。われらがファンタジスタ、ファルマン。思い出して、一生笑えると思う。

2025年2月5日水曜日

寒波・叡智・象徴

 とてつもない寒波が来ている。1月も寒かったけど、雪はそれほどなくて、今年はほどほどな感じの冬だったな、などと思っていた。なにしろ寒いのがつらいので、1月が終わるともう前のめりで、寒さの底をついたという気持ちになるのだけど、そういうことを言うとファルマンはすかさず、「本当に寒いのは2月だよ」と言ってくる。今年もそのやりとりが1週間ほど前にあって、そしてまんまとその通りになった。成功体験を与えてしまって悔しい。地震の予知などと一緒で、外すときもわりとあるのに、的中したときのインパクトが強いので、それがまるで神託であるかのような力を持つ。
 しかし今週いっぱい居座るというこの寒波の、今日が水曜日なのでまさに真っ只中なわけだが、それゆえにしっかと思う。いまが、いまこそが底であると。これに耐えればあとはもう上り坂。あたたかさがやってきて、やがて暑さがやってくる。嬉しい。猛暑日が連続した昨夏、40年あまりの人生、ずっと暑い夏にいたような気持ちになったけれど、いまは逆で、ずっと寒い冬を生きてきたような気がしている。もしかすると僕は2ヶ月くらいのスパンで別人格に生まれ変わり続けているのかもしれない。

 プールが休館期間に入ってしまったので、プールでやった気になっていた筋トレを、代わりに家でやっている。これまでもやっていたが、比重が増したということだ。
 その筋トレで、去年の11月15日に、見知らぬじいさんから「腹、割れとったな」と言われて気を良くしたこともあり、大胸筋だけでなく腹筋にも力を入れていて、腹筋ローラーなんかをやっているのだけど、最近になってどうも効果が薄まっている感触があるのだった。はじめは、やった翌日には腹が強張り、刺激が与えらえているという実感があったのに、最近はどれほど転がしてもそんなことにはならない。原因は判っている。
 僕が優れているからだ。
 前にも書いたが、筋トレは、バカのほうが向いているのだ。なぜなら、筋肉を余計に刺激する、効率の悪い動きができるから。僕なんかはどうしてもそれができない。慣れない最初こそその状態になっても、わりとすぐに要領を得てしまう。意思では、無理やりに腹に負担をかけようと思うのに、知性がそれを遮断し、効率よく動かずにおれない。
 かくして僕は腹筋ローラーを、完全に力の入らないフォームで、乗りこなしている。これではもはや安楽椅子みたいなものだ。いっそ腹筋ローラー探偵でもやろうかな。

 去年末に行なった親族カラオケで、次女の夫がDA PUMPを唄ったのである。「if...」であった。それを受けて僕は急遽、序盤で唄うつもりのなかったSPEEDを入力したのだけど、それはまあ別にどうでもよくて、なんかDA PUMPというグループ、そしてそれを唄う人間というのが、これまであまり身近にいなかったものだから、わりと衝撃を受けた。「if...」のリリースが2002年で、次女の夫は僕の5個下なので、当時中学生ということになる。彼は、声の低いラップ部分なんかもばっちり決めて、ウケを取っていて、ああこの男は、高校生の頃とかに、仲間とこんなふうに唄って盛り上がったのだな、ということを思った。繰り返しになるが、僕はそのあとSPEEDを唄った。「ALIVE」だ。ちなみにこの歌のセリフ部分、「ずっとこの想いは胸に息づいてる」を、「女の子のいちばんの性感帯は頭の中にある」と言い換えるのが、別に仲間とそんなふうにして盛り上がったわけではぜんぜんない、僕の持ちネタなのだけど、さすがにそれは、義父母も、多感な年頃の娘もいる親族カラオケでは、実行しなかった。
 ところでMD世代という言葉があって、だいたい僕から前後3歳くらいの年代のことを指し、だから次女の夫なんかはこの括りには入ってこないのだけど(彼は世間に名高い「ゆとり世代」である)、このMDには、「無気力ではない・どうでもいいや」であるとか、「モーレツでもない、デジタルネイティブでもない」、そして「無回答・どちらでもない」など、いろんな言葉が掛かっているのだけど、もちろん記憶媒体としてのMD、すなわちミニディスクがネーミングの由来の主体で、このMDに入れていた音楽の代表として、これまでMAXとV6というのが、あの時代の象徴としてふさわしいと思っていたのだけど、次女の夫のそれを聴いて、V6じゃないよDA PUMPだよ、と喝破した。なにしろMAXとDA PUMPなら、それもまたMDなのだ。いよいよ上手い。いよいよこの言葉は日の目を浴びるべきだと思う。

2025年1月18日土曜日

チョコパイ・鍵・よくなさ

 いま我が家にはチョコパイのパーティーパック(9個入りのやつ)が5つある。どうしてだと思いますか。正解は、僕がクレーンゲームで取ったからだ。
 成人の日に、子どもにせがまれてゲームセンターに行き、なんの気なしにクレーンゲームをやったら、まず「きのこの山」がふたつ連なったものが取れ、気を良くし、次にチョコパイが5パック積み重なったものが、2本の棒で橋渡しのように載せられている台に移動し、4回ほどの挑戦で、見事にすべてを落としたのだった。なんかこの日は、お店の設定が甘かったのか、僕がやけについていたのか、大収穫であった。
 ちなみに話を分かりやすくするためにチョコパイ5つと言ったが、詳しく言うと、いわゆるチョコパイはひとつで、3つは「おもてなしチョコパイ あまおう苺」、最後のひとつはカスタードケーキである。この帰りに立ち寄ったスーパーで、わざわざ値段を確認したら、ひとつが400円もしていた。昔は198円とかだったのに! と嘆く気持ちもありつつ、しかしこの場合は、売価が高ければ高いほど喜びが増すのだった。
 味が落ちただの小さくなっただのと言われ、チョコパイを取り巻く昨今の状況は厳しいが、それでもやはり幼少期からの刷り込みもあって、チョコパイには他のお菓子にはない、テンションを上げる力があると思う。それが5パック、合計45個あるのだ。テンションぶち上げと言ってもいい。
 それとこれを機にチョコパイについて検索をしたのだが、パッケージに「since 1983」とあったので、もしやと思って探ったところ、なにぶんお菓子のことなので、何月何日全国一斉販売、というものではないことは初めから分かっていたけれど、忍耐強く追い求めた結果、「販売開始は9月である」という記述を見つけ、心の中で派手めのガッツポーズをした。9月に販売開始ということは、それよりも前にチョコパイは工場で生産が始まっていたということになる。つまり僕が生まれたとき、チョコパイは既にこの世にあったのだ。でもファルマンが生まれたとき(4月3日)には、まだなかった。まだ試作段階とかだったろう。ともすればネーミングも定まっていなかったかもしれない。ファルマンが生まれたとき、この世にはまだ、チョコパイも、東京ディズニーランドも、ファミコンもなかったのだ。もしかすると電気もなかったかもしれない。暮しの想像がつかない。でもそういう文明のなかった古来の人々の、知恵と工夫の積み重ねで現代の暮しがあるのだな、と感謝の気持ちが湧く。チョコパイのひとつやふたつ、くれてやってもいいと思った。
 
 実は去年、自宅の玄関の鍵を失くしていた。失くしたあたりの時期にそのことを書いていたろうかと探したのだが、どうもまったく触れていないようだった。2月のことであった。日記に書いていないのになぜ覚えているかと言えば、財布にずっと、交番に遺失物届を申請したときの控えを入れていたからだ。久しぶりに取り出してみ見てみたら、2月だった。
 それで、なぜ久しぶりにそれを取り出したかと言えば、交番から連絡が来たからではない。来るわけがない。来るわけがなかったのだ。
 だって鞄から出てきたんだもの。
 通勤時、いつものように鈴カステラをつまんでいて、その日は新しい袋を開けたところだったので、満足する量を食べたところで袋の口を閉じようと、鞄のどこかに輪ゴムはないものかと、片手で探っていた。そのときである。指先になにか硬質のものが触れ、なんだこれと思って取り出してみたら、ずっと行方不明だった自宅の鍵だったという次第である。ものすごくびっくりした。
 これまで、鍵を探す目的以外でも、定期的に鞄の整理はしていた。ポケットがわりとたくさんある鞄で、あまり配置を定めずその場の流れでいろいろ入れるので、すぐにぐちゃぐちゃになるのだ。定期的にやっていたのに、これまでずっと見落とし続けていたのだ。ポケットが多少立体的な作りになっているので、マチになっている部分とかに入り込んでしまっていたのかな、と推理している。それにしたって狐につままれたような気分だ。1年越しにずっと探し続けていた鍵が出てくるのなら、もはや何が出てきてもおかしくない。「あの日言えなかったありがとう」とかも、そのうち出てきそうだと思う。
 ともかくよかった。これがないと、退去時、余計にお金を払うことになるだろうから。一円も儲かってないけど、なんか儲かったような気持ちだ。

 僕とファルマンの大学の卒業式のときの写真という、なんともおそろしいものが出てきて、それを見たポルガが、
「陰キャピースじゃん(笑)」
 と両親を指さして笑ったので、陰キャピースという言葉はその時点でよく分かっていなかったが、もちろん馬鹿にされたことははっきりと解ったので、てめえコノヤロー、となった。
 このあときちんと検索をして、意味を知る。だいたい想像通り、言葉通りの意味で、陰キャがするような力のない、自信なさげなピースのことを指すらしい。そしてインスタとかをやるZ世代の若者が、あえて「陰キャピース(笑)」として意図的にやるのがキマッてるのだそうだ。そうなんだ。Z世代は多様性に理解があり、全般的に優しいのかと思っていたけど、実はぜんぜんそんなことないんじゃんね。めっちゃ揶揄するんじゃん。
 こちとら、インスタでもなければ、あえてでもない。完全なる天然ものである。添加物一切なしの、ナチュラル陰キャピースだ。張りぼてのお前らとは格が違うのだ。ひれ伏してほしい。
 それにしても、幼少期のフィルムカメラでもない、最近のスマホの高性能カメラでもない、ちょうどわれわれが若者(18歳からのざっと10年間くらいと考えて)であった時代の写真の、「よくなさ」って、ちょっとすごくないか。これはもうこの時代のひとつの文化と定義してもいいくらいの「よくなさ」。
 久しぶりの当時の写真を目にしてしまい、だいぶやられた。

2025年1月7日火曜日

盛りのついた犬・クズ知人・保護者さん

 年末年始の長い連休の最後のほう、なんのストレスのない日々を送っていたのに、なぜか体調を崩してしまった。食事とか、睡眠とか、平日はわりと時間がきっちりと定まっているのに対し、連休中はそのあたりのことがグチャグチャだったので、体にとっては逆にそれが強いストレスになったのかもしれない。喉は痛くなるし、さらには珍しく目が充血したりした。年始からさんざんだぜ、と嘆くほど大崩れしたわけではないけれど、連休明けの出勤と併せ、テンションはとても下がった。去年のGWも今回と似たようなことになったと記憶している。連休のことを尊びすぎて、愛が重たすぎるのかもしれない。もっと平然と、アーバンでアダルトないい関係を築きたいと思うが、いつだって盛りのついた犬のようになってしまう。腰の躍動が抑えられない。そして最終的には陰茎に血が集まりすぎてひっくり返ってしまう。切ない生きものだと我ながら思う。

 去年、ファルマンの祖母(父方)と祖父(母方)が亡くなったものだから、まあ喪中ということで、という感じで今年は年賀状をやらなかった。喪中ということにするかどうかは個人の判断という雰囲気だったが、年賀状作りにまつわる億劫さが背中を押し、じゃあ喪中だよ、バリバリ喪中だよ、ということにしたのだった。
 しかしそんな半端な、言わば半グレ喪中であるため、じゃあ喪中のハガキを出すかと言えばそんなこともないわけで、毎年年賀状のやりとりをしている人に対しては、ただ無言で今年から年賀状を送るのをやめた人になっている。とても感じが悪いと思う。
 こんな僕にも実は、学生時代の知人で、なぜか年賀状のやりとりが続いている人がふたりだけいて、そのおふたりからは今年もきちんと年賀状が届いた。向こうもこのタイミングで唐突にやめてくれていれば助かったのに、こんなクズ知人のもとへ、律義に手書きのメッセージまで記して送ってくれたのだった。年賀状という習慣はもう本当にやめたいと思っているし、また正直に言って、このふたりと実際に再会する日が来るとは思えないが、それでもさすがにこのまま音信不通になるのは、不義理が過ぎるだろうと思う。
 こんなときは寒中見舞いという名目で文を送るものらしい。でも待ってよ、と思う。年賀状が億劫でキャンセルした界隈の人間が、寒中見舞いなどという、これまで続けてきた惰性さえもない、そんな新規の行為を、やれるだなんて思いますか。もはやその億劫さは年賀状の比じゃない。こんなことなら素直に年賀状を適当に作り、ペッペッペーと送っていればよかったと、激しく後悔している。

 「nw」に書いたが、ピイガのコートとキャスケットを作ったので、その代金をピイガちゃんの保護者さんからいただくことになった。「保護者って言うな。その言い方、嫌いだから」とのことで、交渉していた保護者さんとは、言うまでもなくファルマンである。
 そして交渉の結果、どうなったかと言うと、いつもスイムウェア用の生地を買っている店で、自分の小遣いではなく、今回はクレジットカードのほうで注文をしていい、ということで話がつく。嬉しい。というわけで連休で30枚のスイムウェア製作に取り掛かり、それがまだ途中段階なのに、また発注してしまった(ファルマンの気が変わらないうちに、という焦りもあった)。
 この際、ファルマンがこういうことを言った。
「そうね、年末年始、実家との絡みとか、よくやってくれたし」
 これは、本人としては純然たる恩義の表明なのかもしれないが(あるいは生地なんかを貯金から拠出することに対する忸怩たる思いを必死に処理しようとしている可能性もある)、実はあまりよくない発言だ。なぜなら、コートとキャスケットには、まず材料費がある。それは最低限の、もらって当然の費用だ。そして品物が無事に完成したので、それプラス、ということで今回のご褒美買い物になっているのだ。そこへまた新たな名目も付与されては、じゃあ工賃はいくらなんだよ、という話になってくるではないか。
「それに、ごはんもずっと作ってくれたしね」
 それだのに、さらに加えてくる。やめてくれ! と思う。材料費と、実家でのがんばりと、9日間の炊事担当。もはや買い物の購入金額の中に、工賃の入り込む隙間はまるでない。工賃ってそう。工賃ってそうなんだよ。つらい。

2024年12月26日木曜日

おむすび三太・濫用エース・台帳的な

 娘たちにサンタクロースからのプレゼントが届く。しかし娘ら、小5と中2である。サンタの存在、果たしてどうなの、いまどういう捉え方の段階なの、と思う。思うけれど、口に出して確認することはもちろんできず、また娘たちも、そこを突くと藪蛇になるかもしれないと警戒しているのか、まったく言及してこない。存在を疎ましく思うものを、ないものとして扱うというのはよくある話だが、いまわが家ではサンタが、もはや誰にとっても存在しないのに、あるものとして扱うという、不思議な状態になっている気がする。しかしサンタというのは、具体的に実在すると考えると、不法侵入とか、贈与税とか、いろいろ問題が出てくるわけで、本当はいないのに各人の心の中でだけいることになっている、というこの状態こそ、実はサンタの正しい立ち位置なのかもしれないな、とも思う。サンライズのアニメの原作者って、会社全体の共同ペンネームとしていつも矢立肇なわけだけど、それみたいな感じで、わが家4人それぞれの、クリスマスという催しにまつわる思念が合体し、でもぴたっとは嵌まらないので隙間が空く、その隙間こそがアイノカタチであり、サンタクロースノカタチなのだと思う。だからその容貌は、毎年変化する。今年のサンタは、曜日の巡りがよくなかったため、週末と平日、ふたつの顔があってちょっと馴染みづらかった。

 年末恒例の健康診断が執り行なわれた。クリスマスイブ、火曜日のことで、前週金曜日が忘年会、土曜日がブリ大根、日曜日がクリスマスディナーとあっては、数値のことを気にしてアルコールを制限するなどということができるはずもなく、ここでも頂上戦争のときのエースの達観、悪い意味での、「もうジタバタしねえ」が発動した。このため結果がどうなるか、わりと不安はあるけれど、唯一の救いは、結果が返ってくるのはどうせ年明けだ、ということだ。残酷な現実を突きつけられ、テンションが下がった状態で年末年始を過さなくていいのだ。ならいい。もうジタバタしねえ。

 ファルマンがひそかにやっている、台帳的な名称の文章投稿サービスがあるのだけど、そこが先日、あなたの1年間の投稿まとめみたいのを送ってきてくれたそうで、少しだけうらやましいと思った。もちろんそんなの、今のご時世、AIが自動でやってくれるのだろうけど、でもなんか丁寧に扱われていると言うか、なんだろうこれは、通信簿とかからの発想だろうか、君のがんばってるところきちんと見てたよ感というか、そういう喜びがあるだろうな、と思った。
 じゃあパピロウ、台帳的な名称のあれを始めちゃうの、と言われれば、もちろん答えはノーである。InstagramやTikTokなど、文章を蔑ろにするツールは好きではないが、それと同じくらい、いやそれよりもはるかに強い度合で、文章表現を尊ぶツールおよび、それに群がる輩のことが大嫌いだからだ。読書とか文章とか、そういうのを好きな人、そういう表現手段にアイデンティティを持っている感じの人、本当に嫌。ダサくて汚らわしい、と思う。台帳的な名称のあれには、それのにおいを強く感じるので、忌避している。もちろんファルマンをはじめとして、それほどの情念を持ってやっているわけではない人も大勢いることは判っている。それでもやっぱり拒否感が拭えない。
 翻って、Bloggerである。あなたの1年間の総括? まったくない。そもそもびっくりするくらい、運営側の、運営している感がない。というより、もうだいぶ前から運営されていないんだと思う。あのGoogleが、2024年にまだブログに思いをかけているはずがないのだ。ブログってもうFAXとかMDの仲間なのだから。もう管理者はとっくにいなくなっていて、でも設備はまだ使えるので、僕はその廃墟に勝手に忍び込んで遊んでいるのだ。そのうち管理者がここの存在をひょんなことから思い出して、「どうでもいいっちゃいいけど、まあ処理しとくか」みたいな感じでスイッチをひとつ押せば、Bloggerは音もなく消え去るに違いない。ブログをやる上でBloggerはとても快適だけど、常にその恐怖がつきまとう。だから定期的に投稿記事をダウンロードして保存している。
 台帳的な名称のあれのユーザーの扱いが先進国(北欧とか)の子どもだとすれば、いつ灯が消えるか知れないBloggerで生きる僕は、難民みたいなものだと思う。それでも僕は自分のしあわせよりも、世界全体のしあわせを願ってやまない。

2024年12月19日木曜日

そういうんじゃない・パラレル・射精のエース

 年末にもらうご褒美を決めた。メガネだ。
 僕とメガネの付き合いは車の運転をきっかけに始まっていて、だから基本的にメガネは運転のためという考えがベースにあるのだが、でも以前はそれを運転以外の場面でも掛け続けていた。しかし前回か前々回あたりに作り直した運転用のメガネは、ずいぶん度が強いものになって、そうじゃないと規定に満たないというからそれはしょうがないのだけど、それまでの単に目がちょっと良くなる次元のメガネではなくなってしまったため、日常の、食事であったり縫製であったり読書であったりの、手元の作業の際にはとても掛けていられず、結果として運転時以外は裸眼の人となっていた。
 しかし最近になって、物がぼやけるとか、具体的にそういう症状があるわけでは決してないのだけど、微妙に違和感というか、ちょっとした不都合を感じる場面が現われはじめたので、じゃあもう運転用とはぜんぜん違う目的のメガネというものを持つことにしよう、と考えたのだった。
 ここまでを読んで、読者諸兄の頭の中には、ひとつの疑念が思い浮かんでいることだろうと思う。41歳。微妙な違和感。手元用のメガネの必要性。え、それって……。
 違う。そういうんじゃない。パピロウに限ってそんなことあるわけないだろ。
 否定の明確な根拠がある。ご褒美で買う、という点だ。もしも本当にその理由で買うのなら、それはご褒美という名目ではなく、必要な支出ということになるだろう。そうじゃないんだ。ご褒美なんだ。カジュアルな気持ちで買うんだ。信じてほしい。俺は信じてる。

 ポルガが学校の友達と映像通話をする。いや映像通話というか、ただLINEをずっと繋げて、もちろん会話もするが、黙って互いに勉強したり趣味のことをしたりもするようで、話には聞いていたが、いまどきの若者は本当にそういうことをするのだ。
 なんで学校が終わったのに学校の人と繋がろうとするんだ、やっと解放された自分の時間だろうと、この若者文化を初めて知ったときには思ったが、部屋でひとり裁縫をしたり筋トレをしたりする際、まったくの無音はなんとなく味気なくて、音楽を流したり動画を再生したりする自分の姿に気付き、しかも主目的ではないそっちのセレクトに時間をかけたりしているバカバカしさのことを思うにつけ、気の置けない友達と、意識しているともしていないとも言えない絶妙な距離感で繋がってるのって、たしかにちょっといいかもなあと思うようになった。
 いいかもなあと思ったが、もちろん僕にそんな相手はいない。いるわけがない。老若男女、どのパターンを想像しても、誰とも繋がりたくない。唯一この人となら繋がってもいいなと思ったのは、パラレルワールドの僕自身だ。そこと繋がれたら、僕たちは時にはしゃべり、時には黙り、ずっと愉しく過せると思う。そんなスマホアプリがあればいいのにな。

 わりと何度も書いてきた今年の射精回数についてだが、ある境地に至った。
 10月までの回数が、去年の総計に対してバチバチな感じだったので、11月に奮起し、12月はこれで余裕かと思いきや、体調を崩したことでなかなか際どくなった、というのがここまでの流れだが、今年も残すところ10日あまりとなったところで、今年の射精回数を表示していたモニターは、スルスルと頭上から降りてきた「?」のパネルによって、閉ざされたのである。もうここから先は、数字とにらめっこして回数を調整するようなことはできない。そもそもがするべきではなかった。去年の108回という数字を凌駕するためにする射精は不純だ。射精は回数を増やすためにするのではない。欲求と快楽のためにするのだ。2年目という、1年目という分かりやすい標的がある状況にあって、僕はそんな大事なことを忘れてしまっていた。とは言えこれは11月の盛んだった射精を否定するものではない。あれはあれでよい経験だった。
 射精についてとても真摯に向き合った結果、こんな境地に至ることができた。もはや気分は頂上戦争のときのエースだ。俺は……もうどんな未来も受け入れる。差し伸べられた手はつかむ。俺を裁く白刃も受け入れる。もう、ジタバタしねえ……みんなにわりい。
 元日に「?」のパネルが外され、そこにどんな数字が現われようとも。