2024年11月27日水曜日

年間行事・愛の不時着・寝言アプリ

 今年も無事に年間行事をやり遂げることができた。「cozy ripple名言・流行語大賞」と、「パピロウヌーボ」である。とてもめでたい。
 また、あまり自画自賛しすぎるのもどうかとは思いつつ、シンパがいないのだから自分で言うしかないので言うけれど、今年の出来もすばらしかったと思う。毎年、大賞発表のプレゼンターと、パピロウヌーボのゲストという2名を誰にするか考える必要があり、今年の場合、後者のフワちゃんはわりと前から定まっていたのだけど、プレゼンターのほうがなかなか決まらなかった。いっそやす子にしてしまおうかとも思っていたのだが、寸でのところで水原一平のことを思い出して、ことなきを得た。
 去年、林葉直子がヒョードルとしてコメントする、というカオスな展開にした結果、ファルマンの反応が鈍かったパピロウヌーボであったが、今年は好評を得た。「それは『俺のむべなるかな』じゃなくて『僕のヒーローアカデミア』」のところがよかったそうだ。あと授賞式で水原一平のふくらはぎに嚙みついたのが、デコピンかと思いきやただの野犬だった、というところも褒められた。嬉しい。
 ああ、1年間の総決算、本当に愉しかったな。作業中、めくるめく愉しい日々であった。ではあったのだけど、ライフワークである「おもひでぶぉろろぉぉん」のほうが疎かになったという事実は否めず、そちらへの意欲もかき立っていた。ようやく大型イベントが終わったので、ふたたびそちらに戻ろうと思う。昨日少しだけやって、過去の僕は2008年の9月20日を迎え、25歳になっていた。25歳! 昔だな! そしてなんかいつまでも、現在に対して16~17年前くらいの関係性が続いている。もっとガンガン進めたいのだけど。

 Netflixで「愛の不時着」を観終えた。どうでしたか、と訊かれればもちろんおもしろかった。1話が1時間以上あるやつの全16話を観て「つまらなかった」という人間はあまりいないだろうと思う。
 いわゆる韓流ドラマというものを観たのはこれが初めてで、鑑賞の途中でも書いたけれど、なるほど女性にとってこれは紛うことなき性的刺激なのだろうな、と思った。恋愛および性行為で得られるのと同じ成分の快感が、韓流ドラマを観ている女性には絶対に発生していると思う。僕は話としておもしろいと思ったけれど、そちら方面の効用は得られないわけで、そこまでさかったように入れ込むということにはなりようがないな、と思った。
 ちなみに観終えてからファルマンに教えてもらって知ったが、主人公のふたりはこのドラマのあと、実際に結婚したそうである。それを聞いて僕は、思わず「三浦友和と山口百恵みたいじゃん」と言ってしまったのだけど、その次の日くらいに、なぜ自分はあんなことを言ったんだろう、と不思議な気持ちになった。せめて反町隆史と松嶋菜々子だったではないか、などと思った。

 流行語にもノミネートされた「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」を筆頭に、まれに僕が唱えるという寝言を、ファルマンが聞いたときは報告してくれるのだけど、当然ファルマンだって熟睡しているときもあるわけで、そういうときの寝言がもったいないと感じ、いっそのこときちんと寝言を録音する体制にしてはどうかと考えて、アプリをダウンロードしたのだった。枕元にスマホを置いておけば、物音がした際に勝手に録音を開始してくれるという。横で寝るファルマンは、「やだ、そんなの怖いじゃん」と嫌がっていたが、まあお試しでやってみようよ、ということで作動させて寝ることにした。
 その夜、午前2時のことである。「そのアプリ、やめてよ!」というファルマンの鬼気迫る声で起された。え? え? と戸惑っていると、「気になって眠れないから!」と強い口調で言われ、寝ぼけ眼のまま、わ、わかったよ、とアプリを解除したのだった。
 僕の寝言録音用である。当然、スマホは僕側の枕元に置くのである。冷たい言い方になるが、「お前は別に関係ない」のである。それだのにファルマンは、物音を立てると録音されるというのが気になって気になって、ぜんぜん寝付けなかったのだそうである。
 なんという、なんという自意識なのか。知ってはいたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。もはや自意識おばけと言っていい。さすがだ。
 かくして、寝言録音アプリは1日ともたず、アンインストールの憂き目となった。「どうしても録音したいなら別々の部屋で寝よう」と言われ、いや別に俺もそこまでして録音したいわけじゃないけど、でもそれにしたってこれってそんな過剰反応する事柄? と思った。
 そして、「自意識おばけ」って「人間ごっこ」の言い換えだな、とも思った。

2024年11月13日水曜日

聖・松本・靴下

 cozy ripple名言・流行語大賞のための1年間の日記読み返し作業を終える。
 11月にこの作業をして、毎年しみじみ思うこととして、自分が愛しい。なぜならこの人は、とてもまじめに生きているからだ。不条理なことや、不愉快なこと、さらには不可解なことなど、数え上げればきりがない、この澱んだどぶ川のような世の中において、まるで凛と咲く一輪の花のように、切なく、そして輝いている。その輝きはひとえに、心性の健やかさに起因する。それはもはや奇蹟と言っていい。なぜならこの腐った世界は、そんなふうに輝かずに生きたほうが、よほど楽なようにできているからだ。でもそれはたとえ楽でも正しくないという、この人にはそういう確固たる理念があるのだと思う。そしてその理念は、有り余る知性に裏打ちされている。蒙昧になにか教えられたことを妄信するのではなく、独自の思考の果てに、揺るぎない正義を立脚させているのだ。それゆえに強い。これほど尊くある人を、寡聞にして僕は他に知らない。
 cozy ripple名言・流行語大賞の発表とは、すなわち僕という人間の1年間を、敬い、慈しむことなのかもしれない。だとすればそれはとても聖なる行為、略して聖行為だし、僕による聖行為の対象となる僕自身もまた、僕に対して同じ気持ちであると考えれば、ここには聖的同意が発生すると言える。僕ら、いつまでも聖らかな関係でいようね。

 そんな俺の聖らかさに対して松本人志と来たらどうだ。
 「事実無根なので闘いまーす」と言って、今年の初頭から姿を消していた松本人志が、先日とうとう訴えを取り下げたじゃないか。
 前から言っているけど、事の発端である女遊びそのものは、どうだっていいのだ。松本人志の家族とか、相手女性の尊厳とか、そんなことは僕には無関係である。ただ、報道が出てからこっち、松本人志の動きがあまりにも不細工で、そのことにショックがある。
 いかにもおっさん臭い、ノスタルジックなことを言うけれど、「ごっつええ感じ」で「エキセントリック少年ボウイ」が初めて流れたとき、僕は衝撃を受けたのだ。大袈裟ではなく、おもしろさってこういうことか、と思った。そこで心を奪われたものだから、それからというもの、松本人志の振る舞いが少々目に余っても、それでもなんだかんだで愛し続けてきたのだと思う。
 しかしそういった素行の悪さや下品さが、ギリギリのところで、鬼才であるがゆえの尖りとして受け入れられていたのが、今回の件はちょっと毛色が違う。バチバチするような危うさは消え、その魅力がもたらしていた説得力も霧散し、ただ虚しい。そこに信じられなさがずっとあり、なんとなく目を逸らし続けている感覚がある。
 話にいちおうのけりがついたことで、年明けにも復帰するという報道がある。反対する気持ちはない。むしろ純粋に嬉しい。でも同時に怖い。出てきた松ちゃんがひどい有り様だったらどうしよう、という恐怖感がある。

 靴下のことで悩んでいた。
 夏の間は、ズボンが7分丈みたいなものばかりだったので、靴下もいわゆるくるぶしソックス的なものになり、後述するが、こちらは大丈夫なのだ。
 しかし涼しくなって、ズボンが長ズボンになると、それほど長いものではないが、ふくらはぎの途中くらいまではあるような丈の靴下を履くことになる。これが悩みの種なのである。
 なぜなら、男性物の靴下のデザインは、死ぬほどつまらないからだ。
 くるぶしソックスはそれでも、けっこう遊んでるものも売っているのだが、普通丈の靴下になると、そこはもう例の、黒・白・灰・紺・茶しかない世界が広がっている。本当にだ。本当にその色しかないのだ。成人男性はいったい何の神に何の罪を犯したことで、こんなにもファッションから色を奪われてしまったの、と嘆きたくなるほど、そんな色のものしか売っていないのである。
 それでも稀に、あるときある店で、まあこれなら履いてもいいかと思えるようなものに出会うことがあり、そういうときに入手することでこれまでなんとかやってきたのだが、最近はとみにそういう出会いがなくなり、いよいよ手持ちの靴下のかかとやつま先の生地が薄れてきて、火急の課題となっていた。
 しかしこの問題は先日、とあるひらめきによって一気に解決した。
 作ることにした、ではない。ハンドメイド靴下にはまだ進出しない。そうではなくて、今年の誕生日にもらった靴と同じ解決法である。
 すなわち、女性物でええやん、となったのである。女性物靴下、対応サイズが21cm~25cmなどとなっていて、だったらいけるんじゃないか、と思って買ってみたところ、ぜんぜんいけた。靴のときにも言ったが、ちんこと違い、足があまり大きくなくてよかった。
 女性物が大丈夫ということになると、一気に世界が拓けた。色とりどりの、ふざけたキャラクターとかが描かれた靴下が、すべておかずとして立ち上がってくるのだった。
 というわけで先日から、左右で色のちがう靴で、それを脱いだらパンダ柄の靴下、なんてふざけたスタイルで暮している。愉しい。

2024年11月9日土曜日

流行語・おせち・瀬古

 今年もユーキャンの新語・流行語大賞のノミネート語が発表となり、じっくりと噛み締めた。しかしどんなに噛み締めても、まったくもって味が薄く、感想を求められても途方に暮てしまうような、そんなラインナップであった。
 ただ、ニュース記事において、どうしても目に入ってしまうヤフコメを眺めていると、誰も彼もが偉そうに、この企画に対して批判的なことをのたまっていたので、逆に擁護したくもなった。カカロットを倒すのはこのベジータ様なんだからお前らがとやかく言うんじゃない的なムーブである。
 とは言え、そういう気持ちもありつつ、しかし、しかししかし、さすがにあんまりではないかと、30語を見てやっぱり思う。ただしこれは選考委員に対する不満ではない。自分も含めた国民全員に対する思いだ。みんな今年一年、言葉作りをサボりすぎた。だから1年がこんなに早かったのだ。言葉でその瞬間に楔を打たないと、時間はどんどん流れ去ってしまうのだ。
 30語のうちのひとつに、「名言が残せなかった」がある。やり投げ金メダルの北口榛花が言った言葉だそう。これはもはやとんちの世界だと思う。「名言が残せなかった」というフレーズが、新語・流行語のノミネート30語に入ったのだ。こいつは一本取られたな、じゃない。だって一本目の投擲で金メダルを確定させましたからね、じゃない。やりはまっすぐ投げたらいいだろうが、言葉はもっとひねりをきかせるべきだ。言葉作りに、投げやりになっちゃいけないよ、榛花。
 ちなみにユーキャンの向こうを張るcozy ripple名言・流行語大賞は、例年どおり11月23日発表予定となっております。年の瀬ですね。

 先日岡山に行ったとき、運転しながらおやつなどをパクつくわけだけれど、そのとき僕が食べていたのが、おなじみの鈴カステラと、あとチップスター(筒に入った成型ポテトチップス)で、しっとり甘い鈴カステラと、パリっとしょっぱいチップスターが、絶妙の組み合わせで、AからB、BからA、どちらの瞬間にも口の中に多幸感が生じ、感動したのだった。
 その感動を、僕はこう表現した。
「おせちだ」
 これは我ながら名表現ではないかと思った。延々と食べ続けられるものへの礼讃の言葉として、「おせちだ」はとてもいいと思う。
 無粋な解説をするならば、おせちがイメージ的に、とても格式の高い、ハレの日の贅沢品であるとされるものであるがゆえに、今回の鈴カステラとチップスターのように、要するにそれ、砂糖の小麦粉と塩の芋じゃねえかという、安っぽいものであればあるほど、そのギャップが愉快に感じられるのだ。だから、マックシェイクとマックフライポテトであるとか、五円チョコとうまい棒であるとか、そういうものを食んで、言えばいい。
「おせちだ」

 市民マラソンの大会で優勝した。そういう夢を見た。
 ほとんど飛び入りのような感じで参加して、普通に走っていたら、僕よりも速く走っている人が誰もいなくて、トップの座を明け渡すことなく、いちばんにゴールしてしまったのだった。流れで参加したものだから、家族も応援になど来ていなくて、ゴールしてから電話をし、テレビを付けるよう伝えた。テレビで中継されるような規模のマラソン大会だったのだ。実際にそんな大会で僕が優勝できるはずはないのだが、さすがは夢である、こんなこともあるんだな、と受け入れていた。小賢しいなと思ったのは、今大会の解説をしていたのが瀬古さんで、瀬古さんは大会を振り返り、そのレベルの低さに苦言を呈していた。ここに、(実際はぜんぜん合っていないが)帳尻を合わそうという魂胆が透けて見える。僕が優勝するマラソン大会など実際にはあるはずがないが、瀬古さんが憂うほどに選手のレベルが低かったわけで、そうなってくると僕が優勝というのにも若干のリアリティが出てくる、という計算らしい。完全な計算ミスである。憂うどころの話ではない。この瀬古さんのいる世界線の日本マラソン界、もとい日本国そのものは、運動能力的にもう完全に終わっている。そう考えると、国として完全に終わっているのに瀬古さんが解説している、というのが逆におもしろく思えてくる。なんかそういう夢だった。人の夢の話ってね。

2024年11月2日土曜日

布袋・寝言・新ブログ

 3部作となった「子羊たちのちんこ」がとても愉しかった。手応えがあった。たぶん読者の多いブログであったらば、「あれは反響が大きかった」などと語ることになったと思う。なんと切ない仮想であろう。読者が一切いない、反応が完全にないブログを十何年もやっていると、もはやこんな境地に至るのかと我ながら驚いている。
 反響の内容はさまざまだったが、誰もが押し並べて唱えたのは、自分の口から言うのは少し面映ゆいところがあるけれど、筆者である僕の優しさだ。僕としては思ったことをそのまま訴えただけだけど、それが結果として、読んだ人たちに優しさを感じさせたのだとしたら、これほどハッピーなことはないと思う。やっぱり、逮捕されたからすなわち悪い、では、思考する生きものである人間としての矜持が揺らいでしまう。思いを馳せ、寄り添い、慮る。これがプロペファイリングの骨子。君が好きだと叫びたいのと同じくらい、ちんこを出したいときってたしかにある。分かるよ。我慢は大事。でも心のインナーが我慢汁でもうグショグショになってしまったら、そのときはもう本丸を射出せざるを得ない。そういうものだ。
 事件から約1ヶ月が経ち、ニュース記事はもう読めなくなったりしている中、こうして男の汚名返上のために言葉を弄し続けることに対し、ファルマンからは「とんだ布袋行為だよ」と白い目で見られた。
 布袋行為とは、コブクロがマラソンレースの開会式で国歌独唱をした際、とんでもない感じで声が裏返ったという、僕なんか「つらい時かなしい時はコブクロの国歌を聴けと祖母の遺言」と短歌にさえ詠んだ、本人とランナー以外のあらゆる人を笑顔にした、あの一件があったろう、あれに関して、発生からたしか10日とか2週間くらい経って、世の中がさすがにそろそろ忘れかけていたタイミングで、コブクロの兄貴的存在らしい布袋寅泰が急に、「みんなあれで笑うのやめろよ」と、世間に対して諫める発言をし、それでまた息を吹き返して、みんなもういちどあの国歌独唱の映像を見て愉しくなった、という流れを表した、われわれ夫婦間における隠語である。つまり擁護しているように見せかけて、もういちど薪をくべること、これを布袋行為と呼んでいる。ちょうど不貞行為と語感が似ていることもあり、いいネーミングだと思う。
 僕の今回の「子羊たちのちんこ」がそれだって言うんですよ。失礼しちゃうよね。

 久々の寝言シリーズ。
 ファルマンがメモしてくれた。たまたま起きてメモしてくれたが、さすがに深い睡眠のときはファルマンだって起きないだろう。だとすれば誰にも聞かれることなく過ぎ去る寝言もたくさんあるはずだ。もったいない。聖なる俺の寝言なのに。
 その寝言がこちら。

「うん、あのね、きょうはね、うん、うん、……あ、やあらかい」

 これを、少年のような甘えた口調で言ったらしい。嬉しそうに。最後の「やあらかい」は、「やわらかい」ではなく、「やあらかい」であったという。
 なんか、こじらせたカルマを感じさせる寝言だ。41歳の僕の中にいる、まだ7歳くらいの少年の部分。そして性的欲求はその中間である19歳くらいのギンギンさを感じさせる。歪な危険性がある。
 「やあらか」かったのはなんだろう。普通に考えればおっぱいだろう。相対している人のそれについて言及したと考えるのが自然だ。でも僕のことだから、僕のことについて、相対している人に伝えているのだ、という可能性もある。その場合は金玉肉袋のことを指しているとも考えられる。どちらにせよそれは僕にとっては喜ばしいことだったようで、例のごとくまったく夢の記憶はないわけだが、愉しく過しているのならなによりだと思う。たしかに、感触が確かめられる対象が期待通りのやあらかさだった、というのは多幸感があるな、と感じ入った。
 一方的に寝言を記録してもらってばかりで申し訳ないので、たまには僕もファルマンの寝言を聞きたいものだと思うが、ファルマンはたまに獣のように慟哭する以外、寝言らしい寝言は一切唱えないのだった。あれはただ怖い。

 予告していたブログを作る。泳ぐことにまつわるあれやこれやに特化したブログ。
 タイトルは「swimming pooling」。
 最初は、同じアルファベットが2つ並ぶ単語という共通点から、「swimming pooling telling」とし、アドレスなんかはそれで登録したのだが、語呂が悪いしさすがにしつこいので要らないな、と思い直して削った。スイミングプーリング。
 ブログの背景を、プールらしさを感じさせるいい感じのものにしたいと考えていて、とにかくそこにこだわった。フリー素材からこれだというものをもらってきて、設定する。そして、透過にしないとせっかくの画像が隠れてしまうので、読みやすさなどはかなぐり捨て、雰囲気を優先させた。パソコン上では、マウスでドラッグさせて読めばいいと思う。モバイル上では、そこまで読みづらいということはないと思う。
 ブログのスキンは急に変えることもあるから、スキンについて語った文はあとから読むとなんの意味もなくなる、というのは十何年も前から経験則として知っているのだけど、こうして気張って設定した直後はどうしても語ってしまう。そういうところが好き。
 このブログに書くべきことを、これまで別のブログに書いてきたので、既にいちど語ったことを、改めてこちらに書き直す、ということもあるだろうと思う。そのあたりのことをあらかじめご理解いただきたいと、いない読者に向かって平身低頭する。腰が低くて好感。

2024年10月26日土曜日

図書館遍歴・母校・41の別れ

 先日島根県立図書館に行き、カードを作ろうとしたところ、あなた方夫婦は12年前に既にカードを作っているから家でそれを探せと言われてしまい、子どもらと違って、ラミネートされない仮のカードしか発行してもらえなかった。
 仕方なく帰宅後、カードの捜索をする。たぶんすぐに出てくるだろうという予感があった。不要になったカード類をまとめて入れておくボックスケースみたいのがあり、そこにはお店のスタンプカードや、病院の受診カード、交通系ICカードなど、人生のさまざまな場面で作り、そして暮しの変化によってもう要らなくなったカードが、塊となって詰め込まれているのだった。そこ以外に考えられない。
 ところがである。最初から最後まで、すべてのカードをチェックしたが、目的のものはとうとう出てこなかった。存在をすっかり忘れていたような施設のカードがある一方で、本当に必要とするものが見つからない。得てしてそういうものだと思う。
 なにが悔しいって、島根県立図書館以外の図書館カードの充実だ。なんと所沢市立図書館の貸出カードなんてものさえあった。大学生の頃に作ったやつだ。それから練馬区があって、倉敷市があって、岡山市があって、早島町があって、玉野市があって、岡山県があった。それなのに島根県立図書館のカードだけがない。時期としては、第一次島根移住のときだから、練馬区と倉敷市の間のはずである。でもそこだけがなぜか抜け落ちているのだった。
 それにしても多い。これ以外に、横浜市でも貸出カードは作っていたし、高校のあった世田谷区でも作った(この2枚はさすがになかった)。島根においても、こちらは現役で財布の中にあるが、今回の県立のほか、3つの市でカードを作っている。以上を合計すると、僕は13の自治体で貸出カードを作っていることとなる。これはたぶんだけど、だいぶ多いほうの部類の人間だろうと思う。

 高校のあった世田谷区、というのがちょうど関連してくる話題。
 先日プロ野球のドラフト会議があって、今回は夏の大社高校のことがあり、部員の誰かがプロ志望届を出したという話もあったので、結果はどうだったのか気になって、各球団の指名一覧を眺めたのである。ちなみにだが、大社高校からは誰も選ばれておらず、それもそのはず、きちんと検索したら、誰もプロ志望届なんか出していなかったらしい。なんだよ。
 しかし大社高校が気になって目にした育成枠のところに、想像もしていなかった学校名を見つける。日本学園高校である。なにを隠そう、母校だ。中学で勉強をまったくせず、地元の公立高校のどこにも行けなかった僕が、なぜか推薦で入れた私立の男子校。ホームルームで担任が、「登下校でタバコを吸うときは、持つ位置に気を付けろよ、手を垂らして持ってたら、それは幼児の目の高さだからな」と注意するような、いま思えばとんでもない学校だった。もちろんスポーツに秀でているということも決してなく、サッカー部はそれでもそこそこだったんじゃなかったかと思うが、野球部に関してはまったく印象がなかった。そんな母校から、育成枠とは言え、プロ野球選手である。しかもソフトバンクの、育成1位と来たもんだ。なんだそれ、と衝撃を受けた。
 衝撃を受けたが、驚きを語り合う当時の同級生なんかはひとりもいないので、ひとりで粛々と、指名された子のニュースなどを読んだ。読んだところ、日本学園高校は2026年から明治大学の付属校となり、明治大学付属世田谷高校に名前が変わるという情報が出てきたので、また驚いた。母校、そんなことになっていたのか。日本学園といいつつ日本大学とはなんの関係もなく、それでいて最寄り駅は明大前であったから、近場の明治大学とくっつくことにしたのだな。ふうん、としか言いようがない。
 ちなみに26年の新体制開始のタイミングで、共学化もするとのことである。そうか……。俺の母校は、共学の世田谷高校になるのか。なんだそれ。

 おろち湯ったり館へ行く。8月の、帰省から戻ってきた直後になぜか行って、キャッスルイン豊川に較べて見劣りするなあと感じて以来、2ヶ月ぶりの訪問である。あれは行ったタイミングがあまりにも悪かったが、そのときの思い出が薄れたいま、ふたたびおろち湯ったり館がしっかり愉しめるのではないかと期待して行った。
 しかし行く前から懸念があり、ふたつ前の記事で書いたように、なんか自分用のサウナマットを用意しなければならないシステムになったらしい。それが実際どのような感じなのかを探るという目的もあった。
 行ったのは金曜日の夜。土曜日に行こうかとも思っていたが、退勤が早く成ったので、いっそ今日のうちに済ませてしまおう、という感じで行った。サウナマットは持っていないので、受付で購入した。8つ折りの、発泡スチロールみたいなやつ。250円。タオルのように、おろち湯ったり館のロゴでも入っていたら、500円でも喜んで買うのだが、パック詰めされた無地の既製品である。色は赤と緑の2種。なんとなく赤を選んだ。
 サウナに入ると、なるほどこれまでのようなバスタオル的なマットがなくなり、各人が自分のマットの上に腰を下ろしている。寂しい、と思う。また、なんとなくこれまでよりもサウナ内の空気が乾いている感じがする。そんなことを言ったら、これまでのタオルマットが湛えていた水分はおっさんたちの出した汗だぞ、という話になってくるのだが、とにかくこれまでとは明らかにサウナの性質が変わった。さらには、使用後の座面を拭くための雑巾までが用意され、出るときはそれで座っていた部分を拭くというのがルールらしい。なんだよこれ、と思う。こんなしちめんどくさい、ちょっとなにかを疎かにしたらルール厳守勢からすかさず窘められるようなサウナ、嫌だよ。サウナっていうのは誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。そもそもサウナっていうのは汗をかく場所なんだから、その汗をそんなに汚らわしいものとして排除しようとするのは、どう考えても矛盾している。そんなこと言ったらプールだって、水泳という運動をしている人のかいた汗がたっぷり含まれている。さらに言えばサウナという密室に大勢で入っている時点で、互いの口腔や肺を出入りした空気を吸い合っているのではないか。そんなことを気にし出したら、生きていけないだろう。なんなんだ、この神経質な人に合わせた仕様は。なんだかすっかり嫌な気持ちになってしまい、サウナにはそれきり入らなかった。外気浴のために上がった2階は貸し切りで、それはよかったけれど、以前のような、たった1回のサウナですかさずととのうような満足感からはほど遠く、哀しかった。僕とおろち湯ったり館の蜜月は、終わってしまったのだと思った。
 ともに過した愉しかった日々を思い出しながら、暗い雲南の夜道を、車を走らせ帰った。窓に映る僕の横顔には、涙が浮かんでいたとかいないとか。

2024年10月20日日曜日

いい趣味・韓ドラ・作業

 前に義母と義妹に会ったときに、どういう話の流れだったか、「トップバリューの鈴カステラがとてつもなくおいしい」ということを語ったのである。相手にそこまで言われれば、「それならいちど食べてみたいものだ」と相槌を打つのは、対話として当たり前のことで、しかし世の中の人はなかなかそれで本当に買って食べるということはしないものだから、そのあと自分が買ったついでに、ひと袋を実家にプレゼントしたのだった。ちょうど義妹が10月中旬に誕生日だった、というのもよかった。税抜き98円。
 それから数日して、また顔を合わせたときに、「鈴カステラは食べたか」ということを訊ね、それに対して向こうが返事をする前に、「おいしかったろう」と言葉を重ねた。結果、「うん、甘くておいしかった」という、それ以外許されないだろ、みたいな答えが返ってきたので、満足した。
 たぶんふたりは、長女の夫がひとりで上げに上げたハードルを飛び越えるほどには、トップバリューの鈴カステラに感動しなかったろうと思う。それはそうなのだ。鈴カステラを数年ぶりとかに食べた人に、簡単に感動してもらっては困る。鈴カステラってそういうもんじゃない。僕はモロッコあたりの伝統食であるクスクスを食べたことがないが、もし今後、食べる機会があったとしても、クスクスという食べ物の情趣は、いちど食べたくらいでは理解が及ばないに違いない。そういうものだ。ものの価値は、それなりの蓄積と素養がなければ、享受できないのだ。もしかしたら僕は、その蓄積と素養に裏打ちされた特権思想、自分は価値の解る人間であるということを実感したいがために、トップバリューの鈴カステラをこれでもかと賛美した上で民衆に与える、という行為をしているのかもしれない。だとすれば、なんといい趣味か。

 ファルマンに強く勧められたので、僕も『愛の不時着』を観はじめている。キプチョゲ並みのハイペースで全話を観終えたファルマンに対し、ビギナーの市民ランナーのような速度でゆったりと観ている。そのぶん景色がよく見えるかと言えば、キプチョゲと市民ランナーがそうであるように、別にそんなこともない気がする。そもそも熱量が違うのである。
 ちなみに、いわゆる恋愛ロマンス的な韓流ドラマを観るのは、これが初めてなのだけど、たぶん『愛の不時着』というのは、大ヒットしただけあって、韓流恋愛ロマンスのエッセンスが高純度で上質に含まれているのだろうと思うが、観ていて、なるほど世の中の(元)乙女たちが韓流ドラマにハマるのは、こういう要素に拠るものか、と得心している。それはまあ、ズキューンと来ちゃうよね、と。
 しかし翻って、妻たちにこんな世界に憧れを抱かれちゃあたまらないな、とも思った。
 僕は今からどうしようもない喩えを言う。きちんと断ってから言う。「こんなことを言うとセクハラだって言われちゃうけど、」という前置きをしてから言うセクハラ発言はセーフ、という意味のよく分からないあのテクニックの応用である。
 韓流ドラマってあれ、床オナじゃないですか。
 あんなものに慣れられてしまったら、現実の刺激程度では反応できなくなると思う。これは男がAVを観るのとは違う。男は物理的な快楽しか求めていないから、床オナのような行為をしない限り、AVと現実は両立する。でも女性の場合は、「女の子のいちばんの性感帯は頭の中にある」という言葉があるように、韓流ドラマによってもたらされる精神への快感は、現実での性的な行為をした場合に注がれるのと、同一の容器に充填される感がある。そうなってくると、現実はもう手も足も出ない。床オナのもたらす強い刺激に対して、現実のそれはあまりにも締まりが悪いと思う。

 今年もはじめた。なにをって。この時期にはじめるものといったらひとつしかない。cozy ripple名言・流行語大賞のための1年間の日記読み返し作業である。
 ここ数年、今年はそこまで記事数もないし、そもそも昔のように、意識してオリジナルの言い回しを生み出そうという熱情があるわけでもないので、挙げられるような候補語がほとんどないかもしれない、と不安を抱きながら作業に取り掛かるのだけど、やりはじめたら、なんだかんだで、あるのだ。日々まじめに生き、減ったとはいえ毎月最低10記事はやろうとしているので、そういう人の所に、キラリとした言葉は、どうしたって舞い降りる。そういうものなんだと思う(もちろん本人のセンスによるところも大きい)。
 それにしても、自分の日記ばかり読んでいる。おもひでぶぉろろぉぉんでは2008年の日記を読み、大賞ではこの1年の日記を読み、さらには先日プール習慣をはじめた時期について言及した2019年あたりの日記がやけにおもしろく思えたのでその頃の日記も読んだりして、本当に僕は僕の日記ばかり読んでいる。表現とはオナニーであるならば、僕の主食は、僕の射出した精液なのかもしれない。へー、パピロウのってこんな味なんだね。

2024年10月14日月曜日

おろちよ・鬼滅・サブスク

 この3連休でほんの少しだけ、行こうかなという思いが脳裏を掠めつつも、それでも結局は行かなそうな情勢の、おろち湯ったり館なのだけど、思いを馳せた際になんとなく、公式ホームページを開いて見てみたら、サウナの利用に関して、『各自携帯用サウナマットをご持参ください お持ちでない方はご利用いただけません タオルのみでの利用不可』という告知がなされていて、驚く。よそではあまり聞いたことがないルール。おろち湯ったり館にいったいなにが起きたのだ。
 これまでは、山吹色のパイル地に焦げ茶色のパイピングがなされた、あの典型的なデザインの、バスタオルほどの大きさのマットが、座面全体に敷き詰められているというスタイルで、いや、もちろん、不特定多数の人が利用するそこに裸の尻を置くのは、考えようによっては抵抗を覚えることなのかもしれないが、しかしサウナは利用前も利用後も清潔にするのが前提であるから、僕はこれまで特に気にしていなかったし、もしも気にする向きがあるというならば、その人は個人用のサウナマットをその上に敷いて座ればいい、と思っていた。だがルールが変更になったということは、それではよろしくない、ということになったのだろうか。
 以前、第二次島根移住プレスタートのいろいろつらかった時期、体をあまり拭かないでサウナに入室したら常連の老人に叱られて心がぽっきり折れたという出来事があったが、基本的に外部の人間が著しく訪れない、雲南の地元常連客ばかりが信じられない濃度ではびこるおろち湯ったり館のこと、あの輩の訴え次第で施設のルールは簡単に捻じ曲げられそうだ、などと思う(こんなふうに書くとすごく嫌な施設のようだ)。
 だが、ルール変更後に行ってもいないし、情報は一切ないけれど、たぶん今回の件はそういうことではなくて、人件費の削減とかかな、と捉えた。タオルマットは一定時間で交換していたが、狭くないサウナの座面に敷き詰められるだけのマットを、従業員が抱えて持ってきて、その姿が出入り口に現われるのを見るや否や、サウナの中にいた客は一斉に立ち上がり、自分の周辺のマットを取り上げ、中央スペースにドサドサと積み上げ、代わりに新しいマットを受け取って皺のないように敷く、というのが暗黙のルールとなっており(また初見殺しの厭らしさが露見してしまった)、でも僕はそれ自体は、プチイベントな感じでちょっと愉しくて嫌いじゃなかったのだけど、個人用携帯マット必須ということになれば、タオルに関わる交換および、当然バッグヤードにおいて発生していたであろう洗濯の労力も省けるわけで、要するにそういうことなんだろうと思った。
 おろち湯ったり館、このご時世に値上げもしない(それこそ常連の輩の圧力かもしれない)ので、経営状況はいかがなものなのか、これまでも心配する部分はあったが、今回のことはその兆候ということなのやもしれない。それにしても、共用のマットがないのは別にいいが、各人が携帯用のマットを持ってこなければならない(持っていない人は受付で販売しております)というシステムは果たしてどうなのか。そのスタイルの場合、施設側が、あの座布団みたいな個人用のやつを用意するものではないのか。それを運用する余裕もないということなのか。心配は募る。

 すごくおもしろい漫画に出会った。
 みなさん、『鬼滅の刃』って知ってますか。もう連載は終了してしまっているんですけど、すごくよくできた作品なので、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいと思い、ヤホーで調べてきたんで紹介していきたいと思います。
 ヤフーだよ。あとみんなもう知ってんだよ。なんならもうブーム終わってんだよ。
 という、まさにナイツの漫才みたいに周回遅れなのだけど、このたび『鬼滅の刃』にハマった。最終23巻の発行が2020年12月のこと。4年遅れ。へそ曲がりにもほどがないか、と我ながら思う。
 逆になぜこのタイミングで読みはじめたかと言えば、晩春くらいに、図書館でたまたま前半の巻が並んでいるのを見かけ、じゃあ読んでみようかと借りて読んだのである。そのあと夏の帰省の際、あの夢のようだったキャッスルイン豊川でも何冊かを読み進め、そしてこの秋、残りの巻をまた図書館で借りて読みきったという次第である。
 ファルマンは途中で脱落し、僕とポルガだけが最後まで読んで、ハマり、そしてそんなふうに保有せず不自由に読んだくせに、最後まで読んだ末に、おもしろかったから持とう、ということになってブックオフで買い揃える、というよく分からないことをした。ちなみに全巻110円だった。当時、異常なブームで異常に売れてたっぽいもんな。
 ところでこの5年ほど、生地選びの際、『鬼滅の刃』関連の、市松であったり麻の葉であったりの文様の柄のことを、わりと疎ましく感じていたわけだけど、いまさらになって、緑と黒の市松模様かっけー! 俺も炭治郎みたいになりてー! と思うようになり、生地が欲しくなった。そうか、だからあいつら(小学生男子)はコロナ禍、猫も杓子もあの柄の布マスクをしていたのか。しかしいまさら布マスクであるはずもなく、どうしたって僕の場合は水着生地ということになり、たしかに御用達の店でも『鬼滅の刃』の各種柄のプリントは販売されているのだが、これまでずっとそのページには見向きもしていなかったのだが、今回ようやくきちんと見てみたらば、緑と黒、ひとつひとつの四角が一辺5cmという大柄だったため、ちょっと水着には不向きそうで、残念だった。もう少し細かいデザインだったら、たぶん本当に買って、水着を作っていた。俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できずに買っていたと思う。

 9月から加入したNHKオンデマンドで観ていた『平清盛』を、この夫婦は近ごろ観ないじゃんね。10日前くらいに観たとき、その日眠かった僕が、最後のほうすっかり舟を漕ぎはじめ、それにファルマンが苛ついて以来、すっかり観なくなってしまったじゃんね。
 世間の評判こそいまいちながら、ちゃんと観た人の評価はけっこう高いという触れ込みの『平清盛』だが、どうやら我々はそこまで到達せず、脱落してしまいそうである。『光る君へ』に触発されて観はじめたところがあるわけだが、そちらのきらびやかな絵面に対し、『平清盛』の泥臭さは、なるほどかつての兵庫県知事が苦言を呈したように、だいぶ観る上でのハードルを上げると思う。
 それとこれは作品自体には関係ないが、amazonプライム経由のNHKオンデマンドは字幕機能がないため、それも視聴の障害となっている。晩酌の際に観るので、そこまで大きな音量にできず、『光る君へ』でもそうだが、時代物なんかは特に、わりと字幕に頼って観ているところがある。実際、字面で把握しないと意味が掴めない固有名詞がたくさんあるじゃないか。それでも昔は字幕なんかなかったんだから頑張れよ、と言われればそれまでだが、晩酌しながら観るドラマで余計な神経を使うのはストレスだ。現代人はそんなストレス、受容できないのだ。
 そんなわけでNHKオンデマンドは、たぶん10月でおしまいにすると思う。あと、ここまでつらつらと正当な理由っぽいことを述べてきたが、『愛の不時着』観たさをいよいよ我慢できなくなったファルマンが、このタイミングでネットフリックスに加入したため、みんな大喜びで『T.Pぼん』や『らんま1/2』などを観るようになったというのが、実は身も蓋もない真相だったりもする。ちなみにいま夫婦の晩酌時間では、『イカゲーム』を観てる。わが家はどうも3年から4年ほど遅れて世の中のブームがやってくるようだ。