2021年7月9日金曜日

交際記念日・コブクロの小さいほう・バズって売れまくる

 7月8日は交際開始記念日。それは19のことだったので、18年前ということになる。
 今年はなぜか、18年、ということを思う前に、19歳だった、というほうに思いが募った。そうか、かつて僕は、19歳だったのか。僕に19歳の頃があったのか。なんだかもはや信じられない。幼少期は幼少期で、それはまあ当然あるだろうと思う。しかし19歳は、もう子どもではない「こっち側」のようでいて、しかし今の僕とはあまりにも違う、淡い幻のような瞬間であると感じる。その頃(何度でも言うけれどファルマンは当時すでに20歳だ)に、僕らは付き合いはじめて、18年後の今がある。年月の経過は、信じられないくらい早いが、早いから軽いかと言えばそんなことはなくて、早いのに重い。そんな性質を持っている。
 最近、自分たちが中学生くらいだった頃の出来事が、四半世紀前の出来事ということになるのだと思い至り、なんだかくらくらした。四半世紀前ということは、四半とはいえ単位が世紀レベルになったわけで、なんかもう、こうなってくるとメソポタミア文明とかもわりと身近なもんだな、なんてことを思う。物差しが壊れはじめているのかもしれない。

 先日なんとなく気持ちが上向きにならなくて、こんなときはあれだ、あれしかない、とコブクロの小さいほうによる国歌斉唱をYouTubeで再生したのだけど、期待していたほど心が躍らず、さらに落ち込む結果になった。コブクロの小さいほうの国歌斉唱で愉しい気持ちになれない日が来るだなんて、ぜんぜん想像していなかった。
 それでファルマンに、「俺はもうコブクロの小さいほうの国歌斉唱でも喜べない人間になってしまったんだ……」と相談したら、「観過ぎ」と一蹴された。
 井森美幸のスカウトキャラバンでのダンスは、あまりにもおもしろくて有名だが、ホリプロはそれがテレビ番組で濫用されネタとして世間から飽きられるのを防ぐため(所属タレントがバカにされているから怒ったとかではぜんぜんないのがいい)、一定期間は映像を提供しないことにしたそうだが、コブクロの小さいほうの国歌斉唱も、なんらかの力によってその対策が取られるべきだったのだ。僕は濫用し過ぎた。もうすっかりオーバードーズで、市販薬ではぜんぜん効かない体になってしまった。

 papapokkeのほうのツイッターで、なんか作者は「みんなの好きな!」みたいなテンションでminneでオリジナルグッズを売ってるけど、ヒットくんやクチバシなんてこの世のほぼ全員(70億分の55人くらいしか知らない)が知らなくて、それじゃあ売れるはずもないと気づき、キャラクター紹介のため、それぞれのイラストともに心の叫びおよびつぶやきみたいなものを、2週間ほど前からアップしているのだけど、「#イラスト」の効力によりポツポツと反応はあるものの、minneの購買層に訴求している気配はまるでなく、なによりヒットくんもクチバシも、結局のところ卑屈で性格が悪いわけで、その内容を見かねたファルマンから、「あれってやればやるほど作者が面倒臭い人だってことが明らかになるだけで、逆にどんどん買いづらくなるんじゃない」と指摘を受けた。
 「じゃあどうすればいいんだよ!」とガチギレして訊ねたところ、「性格悪いことをただ言っておしまいだと救いようがないから、人志くんとの掛け合いにしたら?」と提案され、「めちゃくちゃそれだよ!」と大採用した。
 というわけで今日のツイートからは、漫画といえば漫画の、人志くんとの会話形式になっております。みんな「いいね」したり、minneでバッグ買ったり、してほしい。

2021年6月15日火曜日

マスク・ボタンホール・車

 先日、結局は大事に至らなかったのだけど、喉が掠れる感じがあり、それは子どもたちが例のごとくどこかから持ち帰った風邪を、例のごとく順繰りにこなした直後のことだったので、ああやっぱり避けきれなかったか、と暗い気持ちになりながら、マスクをして眠ることにした。しかしマスクを着けて寝ようとしても、寝て肉体が本能に支配されると、どうせすぐにマスクは取ってしまうのだよな、と思った。思いながら寝た。そして数時間後に起きたところ、口元にマスクがそのままの形で残っていたので驚いた。ああ、もう体が、本能が、マスクのことを異物として捉えなくなったのだ、と思った。人類の、何十何百何千年の蓄積ともいうけれど、案外その一方で、1年くらいでがらりと変わることもいっぱいあると思った。

 ファルマンにブラウスを3着作り、基本的には軽快に作業を行なったのだが、最後に気の重い工程があって、それはボタンホール作りである。ボタンホール縫いは家庭用ミシンを使わねばならず、しかもそのミシンが、機能的にもともと頼りないのに加え、近ごろは寿命的な息切れも感じさせはじめてると来ては、スムーズに済むはずがなく、案の定おおいに難航した。特に困難なのは、襟とカフスの、生地が厚い部分の縫いだ。途中で糸が切れたり、送り歯が止まったり、何度も失敗を繰り返す。そして何度も失敗すると、生地がだんだん力なくなってくるので、ますますくしゃくしゃになりやすくなるし、なにより仕上がりに影響してくる。とにかく嫌で嫌でしょうがないのだった。それで苦労しながら、ああ、もっとボタンホールを縫うのが得意なミシンが欲しい、と心の底から思う。そこで検索してみたところ、そういうことを謳っているミシンは、普通のものよりちょっと高くて、7万円くらいしていた。7万……、ボタンホールのために7万……、と逡巡する。それにしたって失敗が続く。縫える気配がない。もう嫌だ。ほどくのに時間ばっかり掛かる。かといって7万のミシンをポンとは買えない。どうしよう、どうしよう、と悩んだ結果、もういっそのことこれでいいじゃねえか、とひらめく。すなわち、最後に開ける予定の穴の印の周りを、工業用ミシンで5周くらい縫うのである。毎周、少しずつずらして、太いステッチになるような感じで、穴を開ける部分を囲う。そんでもって穴を開ける。なんでえ、これでよかったんじゃんか、と思った。工業用ミシンでならば、正確に印を囲んで縫うことができるのだ。これで十分に、ボタンホールとしての要件は満たす。どうも「ボタンホール縫い」という言葉に縛られ過ぎていたようだ。縫製が終わったあと、家庭用ミシンを引っ張り出してきて、にっちもさっちもいかないボタンホール縫いをするという作業がなくなったことで、服作りに挑む気持ちがとても軽くなった。とても嬉しい。

 ファルマンがとうとう免許を取るということで、5月の終わりごろに、車の購入の手続きをした。車がなければどこにもいけないこの地域で、ファルマンが行動をするために免許を取ったわけで、車がもう1台なければどうしようもない。なので買うほかない。これまでのMRワゴンを主にファルマン用とし、主に僕用として新しい車を買うことにした。そしてどうせ買うならば、やっぱり軽というわけにはいかず、普通車、それも実家の近くに住んでいるということを思えば、いざというときにもう少し多く人が乗れる車のほうがいいのではないか、などと考え、かといってワゴン車ほど大仰なものはさすがに嫌なので、まあ現代においてこのあたりの希望を持つ輩というのは、ほぼ二択、ホンダのフリードか、トヨタのシエンタのどちらかを選ぶことになるわけで、どちらにも試乗した結果、わが家は前者を選んだ。「ちょうどいい」のやつ。かつてCMに東出昌大が出ていたやつ。納車はまだなのだが、試乗した感想として、軽自動車の世界の、愛嬌などの尺度とはまるで異なる、どこまでも実用的な車で、完全に語彙が喪失してしまっているが、これは「車」だなー、ということを思った。この「車」さを前にしたら、軽自動車ってあれ、もしかしたら本当は車じゃないんじゃないかと思えてくるほど、実に「車」だった。僕はこれから、やっと「車」に乗るのかもしれない。車って、そうか、車なんだな、と新しい車観が啓けた。納車が愉しみ。

2021年6月14日月曜日

みょうが・インスタ・直角二等辺三角形

 先日、今日のメニューは天ざるうどんだな、と心に決めてスーパーに行った際、ふと目に入ったみょうがを、なんとなくカゴに入れた。これまでいちども口に入れたことがなく、味の予想もつかなかったのだけど、絶賛する人は絶賛しているし、なんとなくだけど俺もそろそろみょうがの年齢になったのではないか、と思ったのだ。
 それで薄切りにして、青ねぎやしょうがとともにつゆに浸し、麵を啜ってみたところ、ファルマンと目を見合わせ、互いに目を丸くするほどに、それは衝撃的に絶妙な味で、ねぎと、青じそと、しょうがの、いい部分だけをひとつの肉体の中に内包させたかのような、マッドサイエンティストが生み出した悪魔のごとき食物だと思った。こんな、人類にとって都合のいい食べ物が、この世にあるのかよ、と震撼した。もうみょうがなしでは冷麺を食べられない体になってしまった気がする。
 それくらいおいしかったのだけど、とはいえ、これまで俺はどうしてみょうがを食べずに生きてきたのか、という後悔はまるでない。これまではみょうがを必要としない人生で、これからはみょうがを必要とする人生という、ただそれだけのことだからだ。この考え方は、みょうがが教えてくれたが、みょうが以外の事柄にも応用できると思う。みょうが人生訓。人生に大事なことはすべてみょうがが教えてくれた。

 ヒットくんオリジナル生地で作ったトートバッグが、本当にたくさん売れてほしいので、販促活動の一環として、インスタグラムを始めようと思い、アカウントを取得した。しかし取得したものの、記事はまだひとつもアップしていない。なにをどうアップしていいのか、さっぱり分からないのだ。思えばTwitterに関しては、始める前から一応の予備知識はあった。別に誰かのTwitterを熱心に読んでいたわけではないが、それでもインターネットをしていたらTwitterの画面というのは自然と目に入ってくる。そのため、ああいうものだな、ああいう文脈のものだな、というのが判っていた。しかしインスタグラムにはそれがまるでない。これまで、目に入ってきたことがない。「インスタグラムで話題」というウェブ記事は頻繁に目にするものの、インスタグラムのページそのものは見たことがなかった。本当にセンサーに引っ掛からなかったのだと思う。
 アカウントを取得すると、まず「おすすめ」として、芸能人とかのアカウントが列挙され、それらをボタンひとつでフォローできる。もちろんするはずもない。芸能人に限らず、僕は別に人の情報なんか欲しくないのだ。僕はただ、自分の作ったトートバッグの販促活動がしたいのだ。しかしSNSにおいて、情報というのは決して一方通行には進行しない。動脈と静脈のように、循環することによってようやく巡るようになっている。フォローしない、つながらない人間の放つ情報は、本当に誰の目にも届かない。本当にだ。なぜならそこには光がないからだ。光がなければ物は見えない。光とはすなわちつながりの関係性だ。世の中はいま、そういうことになっている。ブログ→Twitter→インスタグラムと、どうもこの順番に、その度合は濃くなるように思う。インスタグラムを始めて、誰のこともフォローしていない僕はいわば、「どろろ」の最初の状態のようなもので、ここから仮にいろいろな人をフォローして、つながりを持っていけば、手や足が手に入り、人間らしくなっていくことができるという、どうもそんなような世界観のようだ。厳しいな。
 スマホで「インスタグラムの愉しみ方」などで検索をかけ、出てきたページを必死で読んだりするが(やっていることがあまりにもおっさんらしい悲哀に満ちている)、読めば読むほど、いったいなにがおもしろいのかさっぱり解らず、途方に暮れる。画像と、短文と、ハッシュタグで、だからなんなんだ。他人のそれが、なんなんだ。もうおととしになるか、タピオカドリンクの写真を撮って、インスタにアップして、飲まずに捨てる輩が多くて社会問題になったりしていたが、実際にインスタグラムのアカウントを取得したことで、ますますこの話が奇異に思えてきた。タ、タピオカドリンクの写真……? いったいそれになんの価値が……?
 こんなに情趣が解らないのに、とにかく物を売りたくてとりあえずアカウントを取得してみるだなんて、まるで中小企業の役員のようだと思う。「なんか、あれだろ、若者は、ほら、エスエス……? エスエヌ……? なんかそういうので、すごく話題になるんだろ? あれやってみろよ。まずそういう行動をしてみることなんだよ」みたいな。完全にそれ。

 トートバッグのマチは5センチなのだけど、マチを縫う前のアイロンというのが、微妙に面倒臭い。片側にズレると不格好な三角になり、出来上がりのバッグの形も歪んでしまうので、けっこう気を遣う。最初に作った3枚(すぐに完売してしまった)は、それでもいちいちものさしを置いて、微調整してアイロンを当てたのだけど、今後さらに量産していくにあたり、どうすれば効率化できるか考え、ゲージを作ることにした。アイロンに耐える素材で、欲しい大きさの三角形を作り、それを布にピッタリ当てることで、一発で求める形の三角形を作り出すという寸法だ。
 それで、どういうゲージになるかということを頭の中で考え、下の辺の長さが5センチの、二等辺直角三角形ということだよな、と思う。そこまでは考えられた。でもそこから先がさっぱり解らない。一辺が5センチだとして、同じ長さとなる残りの二辺の長さはなにか。そして三角形の高さはなにか。まさかこの年になって、生活の中でこんな三平方の定理的な、サインコサインタンジェント的なことで頭を悩ますとは思ってなかった。
 考えても分からないので、試験問題ではない特権で、方眼紙に5センチの直線を引き、目的の直角二等辺三角形を切り出す。その形さえ手に入ればそれ以外の情報は別にいらないのだが、いちおう測ったところ、残りの二辺の長さは3.5センチとなり、そして高さは2.5センチだった。こうして測ってから気づいたが、5センチの下辺を合わせてこの三角形をふたつくっつけたら、対角線が5センチとなる正四角形になるわけで、そう考えたら高さが2.5センチなのは自明の理だった。さらにいえば、その正四角形の1辺の長さは3.5センチなので、面積は12.25平方センチとなり、これって対角線の5センチを2倍にした数字の半分だけど、そういう法則でもあるのかしら、と思って検索したら、「四角形の面積は対角線の二乗÷2」なのだそうで、大正解だった。僕は十代の頃、戦争がひどくて学校に通えなかったから、こういうことをまるで学ぶことができなかったのだけど、こうして自分で必要に迫られて考えると、とてもおもしろいもんなんだな、と思った。

2021年5月23日日曜日

オオキンケイギク・友情・百年前日記

 今年は異様に早く梅雨入りし、そもそも山陽から山陰に冬に出てきて、ようやく本格的な春となり、これからは山陰のとても限られた、明るい天候の日々になると思っていたら、見事に期待を裏切られた。やー、ぐずつく。日本海側は本当にぐずつくな。
 それで、向こうとは気候があまりにも違うし、生活もなにかとバタバタしていたりで、すっかり失念していたのだけど、先日車で走っていた道の端に、オオキンケイギクが咲いていて、「あっ」と思った。そういえば、5月下旬は、オオキンケイギクの咲く時期だった。
 あまりにも悪名高く、好きだなんていったら白眼視されるオオキンケイギクだけど、でもやっぱり形といい、色といい、好みだ。
 そのとき見かけたのは道路と歩道の間のちょっとした土の部分に咲いていたもので、目にして思い出した感慨はあったものの、スケールとしてはあまりにも物足りなかった。それ以来、どこかに群生していないものかな、と期待しているのだけど、行動範囲には残念ながら見当たらない。川や湖など、近所に水辺はけっこうあるのだが、どうやらこの土地はあまりオオキンケイギクに侵食されていないようだ。それはたぶん世の中的にはいいことなのだが、個人的には少し悲しい。
 ちなみに僕のLINEのプロフィール画像はオオキンケイギクだ。

 相変わらず「ズッコケ三人組」を読みまくっている。元のシリーズはもちろん、中年のほうももう半分くらい読んだ。前回これについて述べたとき、よく考えたらズッコケ三人組って友達の物語じゃないかよ、といまさらながらに憤慨したが、読めば読むほどその思いは強まっている。このシリーズは、友情とか親友とかの大切さを押し付ける、説教臭い児童文学ではなく、たとえば「おいしい」という言葉を使わずにおいしさを表現する、みたいなもので、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの3人は、ことさら友情を確かめ合うわけではなく、むしろその結びつきは友達と呼ぶには足りないくらい淡白のような気さえするのだけど、しかしやっぱり強い友情がここにはあるのだ。その友情はあまりにも強固で当たり前のものだから、わざわざ語るまでもないのだ。それだから僕は時間差でそのことに気づいて、なんだよこれめっちゃうらやましいやつじゃん、と身悶えることとなった。
 友達が欲しい、などといっている間はダメなのだ。友達とは気づいたらなってるもの(「君に届け」)だし、なんとなくいつも一緒にいて、周囲から「ズッコケ三人組だ」と評されるものなのだ。すなわち、友情とは無自覚であるべきなのかもしれない。友情は無自覚であるべきだと自覚した僕と、誰か友達になってくれないだろうか。

 ブログが拡散し、ふたたびこの「hophophop」や「おこめとおふろ」を投稿するようになったことで、それまで収束していた「百年前日記」を今後どう扱ったものか悩んだ結果、去年から書いている、去年からの日々を綴った、その名も「百年前日記」を、不定期に更新している。しかしあまりに赤裸々な内容なので、いちいち投稿報告はしていない。しかし投稿報告をしないと、あまりにも誰にも読まれていないような気がして、もっともこれは投稿報告をしたところでそう変わる気もしないのだけど、とにかく広く読まれたいような、あまり読んでもらいたくないような、いかにも、あえてこの時代にブログなんてものをやっている、こじらせ感が横溢している次第だが、しかしこの複雑な心境こそブログの真髄だろうとも思うわけで、その思いの発露として、やっぱり投稿報告はしないのだけど、このたびここに、そんなものを不定期に更新しているんですよ、ということを記した。こじらせている。

2021年5月11日火曜日

体・夏・友

 サウナやプールで自分の体を見るたびに、首をかしげる。
 この体は……、締まっているのか? それともただ痩せているのか?
 自分でも、どうにも判断がつかないのだ。167センチで53キロなので、瘦せ型ではある。だから知らない人から見たら、僕は筋肉がついている人ではなくて、贅肉がないものだから必要最低限の筋肉が表面に露出しているほうの人にしか見えないだろうと思う。しかし曲がりなりにも、僕は実は筋トレをしている人間なのだ。筋肉がきわめてつきにくい体質ではあるけれど、そうはいっても体としてもなんかしらの反応は示しているはずだ。これはその筋肉だ、だからこの人物はいわゆる細マッチョなのだ、という気もする。
 筋トレを始めてもう2年あまりになるが、それなのにまだこの段階、というのが切ない。

 先日とある場所で見かけた女性が、非常にどこかで見たことのある気がする顔の人で、誰だっけ誰だっけ、としばらく悩んだ。島根県生活も2度目なので、かつての職場で知り合った人物であるとか、いろいろ選択肢はある。しかしなんとなくの印象で、どうもそんな最近の交流ではないような気がする。あの人を見たのは、もっとずっと前、たとえば僕が十代の頃だったのではないか。しかし十代ということは横浜市時代である。そんな頃に知り合った人と、まさかこんなふうに島根県でばったり出会うものだろうか。まあ自分自身がこうして島根県に来ているのだから、相手だってなんかしらの事情により島根県にたどり着く可能性はいくらでもある。しかしそれにしたって思い出せない。絶対にどこかで見たことあるのに、どの時代のどの集団にいた人なのか、まるで見当がつかない。もっともよくよく思い返してみれば、別にそこまで特徴のあるわけでもない、よくある顔だ。どこで出会ったということもなく、人生の端々にあの手の顔の女性というのは存在していたのではないか。そんなふうにも思った。
 それでもずっと頭の中で、その女性の顔を思い浮かべていた。
 そして夜になって、つまり5時間くらい経って、ようやく思い至った。
 まさか本人ではないと思うが、あの女性は、モーニング娘。の振り付けで知られる、夏まゆみ先生にそっくりだったのだ。なるほどあれはよくある顔だ。同級生の母親とかに、必ずひとりはいる顔。そして自分が十代の頃に交流があった(「ASAYAN」などでよく目にしていた)、というのもぴったり当て嵌まる。特定できてとてもすっきりした。

 「ズッコケ中年三人組」に手を出す。目下「ズッコケ三人組」を僕と競い合うように読んでいるポルガと、これも一緒に読もうと思っていたが、冒頭からハチベエは水商売の女をホテルに誘い、不倫をしようとしていたため、とても読ませられない、と思った。あくまで、かつて「ズッコケ三人組」を読んでいた元子どもの大人、すなわち僕みたいな人間向けに書かれたものであって、リアルタイムで児童書のそれを読んでいる子どもには向けていないらしい。挿絵もないし、ここまできっぱり貫いていると気持ちがいいと思った。
 この本で主人公たちは40歳になり、それぞれの実生活においてそれなりに苦労をしているが、しかし彼らがどれほど苦境に立たされたところで、やはり「三人組」というくらいで、その友達の存在がずるいと思った。「ズッコケ三人組」は、それほど友情物語というわけでもないけれど、しかし三人組だ。そういえばずるい。いまさら気づいて、そのずるさにおののいている。

2021年4月26日月曜日

ビール・ファル教・ズッコケ

 この3日ほど、ビールを飲んでいない。なんか唐突に飽きたのだ。たまにこういうときがくる。ビールに限らない。僕の性分だ。急に冷めるのだ。この飲み物を、どうして僕はそんなにせっせと飲むのかと、とても不思議な気持ちになった。義理立てするかのように必ず、なぜ飲んでいたのか。どうしても飲まなければならないほどおいしいものでもないだろう。というより、飲んで得られる旨味も爽快感も、もう分かりきっているだろう。じゃあもう実際に飲む必要なんてないんじゃないか。
 飲むと運転ができなくなる、というのも飲む気を萎えさせる理由のひとつだ。夜に運転ができるとして、まさかこの僕が友達と遊ぶわけでもあるまいし、いったいどこへ行くというのか、という話ではあるのだけど、なんというか、気持ちの問題なのだ。車を運転できるということは、夜が、すなわち一日が、まだまだ展開し得るという希望になる。心底おいしいわけでもないものを飲んで、その希望をどぶに捨てるのが惜しくなった。
 これまで呪いのごとく欠かさず飲んでいたので、飲まないでいると、解放感がある。一日の疲れを解放するためのビールだったはずなのに、日課になったことで、逆に枷になっていたのかもしれない。手離してみたらとてもすっきりした。今回はビールだったが、こういうことは人生の中でたびたびある。好きなことも、高じたり重ねたりすると、いつしか囚われるようになる。そこを突破してさらに突き詰めれば、極めるということになるのかもしれないが、なかなかそこまで入れ込めるものは少ない。少なくともビールは僕にとってそれではなかったようだ。これからは飲みたいときにだけ飲もうと思う。

 ファルマンの教習所での適性検査の結果が返ってきて、おもしろかった。「注意力:C」、「判断力:C」「柔軟性:C」「緻密性:C」などと、概ね評価は低く、それはそうだろうと思ったが、その評価欄の中で燦然と輝く「A」評価もあって、なんだろうと思ったら、「自己中心性」と「虚飾性」だった。ファルマンはこれを、「Aがいちばん低くて良いということだ」と主張するのだが、そんなことは用紙のどこにも書かれていないし、悪い要素のときだけ評価(Aが「すごい度合」、Bが「普通」、Cが「皆無」であると認識した)が逆になるなんて、ややこしいだろう。それに、もう17年以上もファルマンと一緒にいる僕が、「自己中心性」と「虚飾性」がめちゃくちゃ高いという診断結果に、とても納得がいったので、やっぱり逆じゃないんだと思う。まあそんなこといったら、日芸なんかに行く人たちは、もちろん僕も含めて、だいたいこの結果になる気もするけれど。
 それにしても厳しい。言葉に容赦がない。「自己中心性」は、「ジコチュー」として言葉に馴染みがあり、まだ受け止めようがあるけれど、「虚飾性」と来たらどうだ。虚飾。なんと残酷で哀しい言葉だろうか。38歳になって教習所に通ったりしなければ、指摘されることもなかった虚飾性。言ってやんなよ、とさすがに思った。

 ポルガが「ズッコケ三人組」を図書館で借りていたので、なんとなく僕も手に取って読んだ。そうしたら殊の外おもしろかったので、むしろ親のほうが嵌まるパターンのやつで、次々に借りて読んでいる。2ヶ月ほど前には、同じくポルガの借りた「ルドルフとイッパイアッテナ」がきっかけで、斎藤洋を何冊も読んだ。仰々しいわりに大した中身のない一般小説よりも、児童向け小説のほうが文章も簡潔でよほど読むに堪えるものがあるのだなと思った。
 もっとも「ズッコケ三人組」シリーズは、さすがに今回が初邂逅ではなくて、まさに児童の頃に何冊か読んでいる。しかし中学生になってミステリに傾倒するまでは、そこまで熱心に本を読むタイプでもなかったので、本当に「何冊か」だ。
 それで今回改めて読んだ結果、まず驚いたのは、この物語の舞台が東京ではなかったという点だ。読めば普通に、「瀬戸内海に面した街……」みたいなことが書いてあるのだが、なぜか勝手に東京だと思い込んでいた。登場人物たちの言葉に方言がないことと、ハチベエの家が八百屋であることから、「ドラえもん」や「キテレツ大百科」などのイメージと重ねてしまっていたんだろうと思う。
 シリーズは2004年に完結し、そのあとスタートした、三人組が40代になったシリーズも、もはや完結しているらしい。ズッコケ三人組が40代か。まあ僕が小学生の頃に読んでいたのだもんな。それどころかシリーズ初刊の刊行は1978年だそうで、そう考えれば1960年代生まれということになる彼らが中年や熟年になるのは当然のことではある。きっとそのうち僕はそちらのシリーズにも手を伸ばすだろうが、なんとなくそれが実際に描かれたことには、グロテスクな、デストピア感もある。

2021年4月16日金曜日

ファルマン自動車教習・ぽんぽこ・信用筋

 ファルマンがとうとう教習所に通いはじめ、期待していた通りにおもしろい。
 まず適性検査がおもしろいんだろうな、と思っていたが、案の定で、これは質問に答えていくことで自己分析を促すのが目的なのか、回答結果で点数が算出され、「適性がないので退所してください」みたいなものではないわけだけど、どうしたって取り繕いたくなるのが人情で、ファルマンは「自分はすぐカッとなるほうだ」という問いに、「どちらともいえない」の項にチェックを入れたり、「ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる」という問いに、「どちらともいえない」と答えたりしたそうで、あまりにも大嘘なのだった。どちらに関しても、もしもコンテストがあれば世界レベルの活躍ができるほどに、「その通りです!」と自信満々に答えるべきだった。ファルマンほどすぐにカッとなり、そしてひとつのことに集中すると周りが見えなくなる人間を、僕は知らない。
 実習も始まり、すなわち教習所内ながら、ファルマンは初めて車の運転をしたのだった。まだ信号も坂道もなく、ただの周回コースをぐるぐると走っただけなのだが、この時点で適性検査での取り繕いはいとも簡単に剥がれ落ち、助手席の教官からは終始半笑いの対応をされたらしい。はじめのうちは教官も、「右」や「左」と指示を出していたらしいのだが、やがてファルマンが右と左がすぐには分からない人だと察したらしく、「植木のほう」とか「ポールのほう」というふうにいってくれるようになったという。
 今も家でイメージトレーニングをしているが、今日は内側の車線を走り、つまり周回コースを左回りにずっと巡っていたはずなのに、復習といいながらエアのハンドルを右に回したりしている。一連のそのさまは、エンターテインメントとしてはとてもおもしろいのだけど、教習の追加料金のことを思うと、他人事ではないので不安な気持ちでいっぱいになる。道のりはきわめて険しい。

 タブレットからスマホになって、ポケットで持ち運べたり、機械を顔に当てて電話できるのは快適なのだけど、画面はやはり小さく、写真や動画を見てもいまいち心が動かないし、画面上のキーボードも、打ち間違いばかりする。かといってフリック入力もいまさらできる気がしないし、なるほどこうして人は音声入力に頼るようになり、どんどんバカになっていくのだな、などと思う。あとこれはスマホだからなのか、メーカーの方針なのか、あるいは時代による変化なのか知らないが、microSDに保存している画像が、すんなり管理閲覧できなくて、いちいちクラウド的な、なにか大きなところからの干渉を許可しなければ取り扱えないみたいな仕様になっていて、これが大きなストレスになっている。本体なりSDなり、個人的な記憶媒体内の画像を、なぜサクサク自由に扱えないのか。アプリだなんだと、これまでできなかったことが魔法のようにできるなどと謳いながら、肝心なところで気色悪い制約があり、居心地の悪さを感じる。
 これまで使っていたタブレットは、子どもたちの音楽再生用に転用されているのだが、先日なんとなく久しぶりに手に取ってみたら、画面の大きさや、そもそも製品の理念としてのパソコン的な包容力に、やるせない気持ちになった。仕事上、ポケットに入れて持ち歩ける必要があってスマホにしたという経緯もあり、「平成狸合戦ぽんぽこ」のラストのような、のどかなあの時代に戻りたい、みたいな物哀しさを覚えた。

 冬や生活のゴタゴタを理由に筋トレをサボっていたら、さすがはアーバンマッスルと呼ばれる俺の筋肉、おい俺の筋肉、どうしたんだい、というくらいに、1年半くらいかけて付けた筋肉という筋肉が、体から消え去った。築くのには長い時間がかかるが、崩れるときは一瞬。筋肉とは、信用なのかもしれない。そのくらい容易に失われた。今になって再興を試みているが、失った信用を取り戻すのは難しい。筋肉を増やすためには、負荷をかけてトレーニングをするわけだが、筋肉そのものはなくなったくせに、トレーニングのこなし方みたいな小手先の技術ばかり体に残っていて、やっていてもどうも体にきちんと負荷がかかっている気がしない。なんか、スンとしている。本当に僕の筋肉はアーバンで、ビジネスライク。もう少し、儲けにならなくても名前を守り続けるみたいな、人情発想はないものかよ。