2022年12月11日日曜日

箪笥体制・母娘・流行語

 衣替えで箪笥の中が冬服になって以降、引き出しの中がギッチギチである。はっきり言って成立していない。開けるのも閉めるのも渾身の力を込めてせねばならないので、なるべく最小限で済まそうとして、とても狭い範囲しか使えていない。活用していない、箪笥の使い勝手を悪くする作用しかない服なんて捨ててしまえばいいという話なのだが、冬服というのは捨てるのも夏服よりもパワーが必要で、どうもその踏ん切りも付かず、にっちもさっちもいかない状況がずっと続いている。
 そんな中で、ファルマンと僕の間で、箪笥という存在への不信感が強まってきている。我々がこうして持っている服をうまく活用できていないのは、もしかすると箪笥に原因があるのではないか、という疑念である。
 箪笥には、服を収納するという機能があり、我々はその機能に対してお金を払って箪笥を購ったわけだが、どうも箪笥はそのお金を、服の収納だけでなく、箪笥を箪笥たらしめる、箪笥自身の価値向上へもだいぶつぎ込んでいる節があると思う。それは大袈裟に言うと、体制であるとか、既得利権であるとか、そういう種類の欺瞞である。我々夫婦は日本大学という所にかつて所属していたので、その手の気配には敏感なのだ。
 家財という言葉がある。また箪笥はかつて嫁入り道具であったという。わが家の箪笥はもちろんそんな上等のものではなく、ニトリとかで買った普通のものなのだが、それであっても箪笥には、服を収納する以外の部分に振っている余力がある気がしてならない。それは真摯ではない。傲慢だと思う。箪笥が、箪笥としての矜持を保つために要するエネルギーを、我々は服を収納する道具としての存在に、求めていないし、認めていない。そこにお金を払った覚えはない。
 今こそレジスタンスの時だ。服は箪笥に収納するもの、という先入観は捨て、引っ越しや模様替えのたびに多大な苦労をもたらす、肥大化し腐敗した体制は捨て去り、具体的に言うと、服が夏なら6、7枚、冬なら3枚くらい入る大きさの、使い勝手のいい機構のプラスチックケースみたいなものを、夫婦で15個くらい持っていれば、それで十分に事は足りるのだから、そうするべきだ。そうするべきだと心の中では確信しているのだけど、なにぶん肥大化した体制というのは、肥大化しているがゆえに、簡単には排除できない。その億劫さによって、体制というのはいつまでも腐ったまま君臨し続けるのだと思う。

 いつまでも夫婦ともども友達がいなく、僕はそのことについて、おととしあたりにようやく、「それでいいんだ」という感動の結論に至ったのだけど、そこまでの道のりが壮絶を極めたのに対し、ファルマンはだいぶ早い段階から、「友達なんていらない」「人間関係なんて面倒くさいだけ」と達観していて、僕は妻のそれに対して憧れと同時におぞましさを感じていたのだが、つい先日、リビングでやかましい子どもたちから避難し、夫婦の部屋にひとりこもって過し、廊下越しに響く3人の声を聴いていたとき、ある事実に気が付いた。
 妻と娘たち、とても愉しそう。
 子どもの相手で疲れると言いながら、ファルマンは娘たちと会話で盛り上がり、よく笑っている。それはまるで、友達同士のようだと思う。母と娘という関係性には、やはりそういう感じがある。もちろんそれ自体はとてもいいことだ。いいことだけれど、「夫婦ともども友達がいない」という前提は、ちょっと様相が変わってくると思う。ファルマンには、友達がいなくても、友達以上に気安く、波長の合う娘がいる。ふたりもいる。それに対し父である僕の「友達がいない」は、それ以上でもそれ以下でもなく、とても高い純度の「友達がいない」である。僕の「友達がいない」には、「だけど……がいる」がなにもない。完全無欠の「友達がいない」だ。そうか、だからだったのか、と得心がいった。なぜ妻ばかりが早々に達観し、僕ばかりが30代後半になってもジタバタしていたのか。同じ立場だと思っていたら、ぜんぜん後ろ盾が違ったのだ。妻には、母には、自分よりも長生きしてくれる、すなわち死ぬまで寂しくなることはない、確固たる保証があったのだ。ひどい裏切りだ。

 流行語大賞に「ヤー! パワー!」が選ばれなかった。それと村神様は当確だろうと予測していたので、とてもびっくりした。なぜ「ヤー! パワー!」が選ばれると思ったのかと言えば、流行ったというより、授賞式を盛り上げられるのはそれしかないだろうと思ったからだ。ベストテンのうち、毎年ひとつはそうやってギャグ枠、芸人枠を設ければ、主催者、マスコミ、芸能界、三方にとってメリットだろうと思うのだが、毎年のことながらこの選考というのはクセが強いな。
 選外と言えば、「顔パンツ」もベストテンから漏れた。道理で僕のもとに授賞式への出席の打診が来なかったわけだ。心の準備と、体の準備はしていたのだけどな。

2022年12月6日火曜日

シーズン・サッカー・ヘアー

 寒いったらありゃしないじゃないか。いまちょうど寒波がやってきているから、ということが言われるけれど、週間予報を見ても最高気温はずっと15度に達しない。そりゃあそうだよ、12月なんだもの、と言われたらそれまでだけど、これまで5月あたりから半年以上、熱が豊富な環境でのうのうと暮してきたので、急に過酷な境遇に置かれ、困惑している。気温お坊ちゃまなのだ。気温お坊ちゃまなので、寒波民が恭しく差し出した12度を、「こんなの嫌だよ!」と言って叩き落してしまう。それは寒波民たちが、子どもらの分も含め、それぞれ食事の量を減らし、やっと工面したものだというのに。もっともはじめはそんな態度だった気温お坊ちゃまも、ひと月もすればすっかりここでの暮しに順応し、寒波民の子どもたちに混ざって、8度を競い合ってむさぼるようになる。とは言え今はまだ過去の栄光が忘れられない。当たり前のように20度以上が与えられていた時代のことばかり考えてしまう。普通にしていたら手がかじかんでくるような寒さの中、さらに日も短く帰宅時は真っ暗となると、いよいよプールに行く気力は湧きにくい。プールの水は温かいし、泳いだあとは熱いシャワーを浴びて、むしろ普通に帰宅するよりも体が温まった状態で帰ることになるのだと、頭では解っていても、どうしたって足が向きづらい。これはあれだな。いわゆるひとつの、あれだな。シーズンオフだな。

 サッカーW杯の決勝トーナメント1回戦で日本代表が負けた。つまりベスト16。これまでベスト8に進んだことがないということで、悲願だったわけだが、残念な結果となった。僕自身は、そこに対する思い入れのようなものはもちろん持ち得ないわけだが、なんにしろかんにしろ、ギャグマンガ日和でも言われていた通り、トーナメントというのはそれだけで盛り上がるわけで、勝ち進んだらもっとおもしろかったのになー、という思いがある。軽いな。そりゃあ軽いよ。サッカー観たの4年半ぶりだよ。
 最終試合となったクロアチア戦は、月曜日の深夜零時(つまり火曜日)キックオフという、真っ当な社会人にはずいぶんハードな日程で、もちろん試合が始まる前に就寝したわけだが、ふと2時20分あたりに目を覚まし、スマホで確認したら、1対1で延長戦をしていて、PK戦になりそうな気配だったので、これは観るべきだな、と思ってリビングに行き、テレビで決着がつくまでを見届けた。そしてそのあとまた寝た。
 前回のスペイン戦しかり、今回のクロアチア戦しかり、僕の、試合中継を前にして寝るは寝るけど、終盤のわりといいタイミングで自然と目を覚ます能力は、どうもなかなかのものだな、と思った。サッカー日本代表は負けてしまったけれど、僕のこの能力は、もしかすると世界のベスト4くらいに食い込むかもしれない。

 髪が長い。もう十分に結べるくらいに長い。嬉しい。いつから切っていないのだっけと日記を振り返った結果、今年の5月21日の「hophophop」に、長髪のままブリーチしてド金髪にしたらあまりにもヤバい感じになったので仕方なく切った、という記述があり、どうやらこれ以来切っていないようだ。つまり現在、6ヶ月半か。なかなかだな。ファルマンはもちろん「切らせろ」「切らせろ」と日々言ってくるのだが、こちらの心は盤石だ。「前髪が分かれておでこが出てて変だよ」とか、「小汚いよ」とか、「得体が知れないよ」とか、あの手この手で説得しようとしてくるが、「いい」「大丈夫」「ノーセンキュー」と、すべて泰然と受け流している。5月の当該記事に、「39歳の僕は、たぶん弓道部の副主将みたいな黒髪ポニーテールをしている」という文言があり、そこへの準備は着々と整いつつあると言える。なにぶんこれから寒くなる一方なので、切らないことへの大義名分があるのがありがたい。こんなに寒く、心身ともにやられかけている人間に、さらに首元を寒々しくしろって言うんですか。そんなの虐待じゃないですか。裾野市じゃないですか。

2022年11月24日木曜日

日程・代表・最低

 勘違いしていた。11月の行事として、『cozy ripple新語・流行語大賞』と、『パピロウヌーボ』と、『パピ労の日報告』があり、勤労感謝の日が、パピ労の日報告の記事を書く日だと思っていた。でもパピ労の日報告は去年どころかおととしから投稿がされておらず、やはりコロナ禍や、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する世界の分断などもあり、今年も投稿は難しいという判断をしていた。だから昨日、11月23日にはなんの投稿もしなかった。でも今年は、大賞とヌーボに関しては2年ぶりに開催する気満々であり、その準備のために、2年前の当該記事を確認したのである。そうしたら、大賞は11月23日に、ヌーボはその翌日の24日にそれぞれ投稿、というのがここ数年の慣習であったようで、あちゃー、となった。2年のブランクがあると、こういうことになってしまう。仕方がないので今年に関しては、勘違いしていたまま、大賞の発表を11月30日、そしてパピロウヌーボを翌12月1日にお送りする予定である。23日に投稿がなくてやきもきしていたオールドファンは、どうか安心して、止めていた呼吸を再開してほしい。息を吸わないと、死んじゃうよ!

 『cozy ripple新語・流行語大賞』をしないで昨日は何をしていたのかと言えば、サッカーW杯の日本代表戦を観ていた(1日中観ていたわけではないが)。サッカーの試合を観るということを、たぶん4年半ぶり、前回のW杯ぶりに行なったと思う。もはや「にわかサッカーファン」でもない。ただの「W杯だけ観る人」だ。潔いだろう。予選もぜんぜん観ていない。しかし4年半ぶりに観たサッカーの試合は、とても当たりの試合で、あのドイツ相手に逆転勝利という、喜びの大きいものだった。それでも僕なんかは、今日はドイツ戦だなあときちんと身構え、晩酌の準備などもして観戦に臨んだのだが、ファルマンはその横で、「え、なに、日本試合なの?」という感じで一緒に観始め、それでいて試合が始まれば、僕よりもはるかに大きなリアクションで叫んだり喜んだりしていたので、こういう人は生きやすいだろうし生きているのが愉しいだろうなあ、と思った。

 触れるだけで火傷するくらいセンシティブな話題なのだろうが、LGBTってあるじゃないですか。それが最近はLGBTQになり、なったかと思ったら、わりとすぐにLGBTQIAと言い出し、これは一体どこまで行くのかと思ったら、最終的にはLGBTQIA+と、この+は、「他にもいろいろあるよ!」という意味だそうで、もういい加減、言ってる側か言われてる側かは知らないが、関係者の誰かしらが、ここらで打ち止めにしよう、ということを決めたようだ。打ち止めと言うとよくないな。はじかれることに対して敏感な人たちの関わってくる事柄だから。他にもいろいろある! でも他にもいろいろあるよ! って言い出したら、もうその前に並ぶアルファベットも一律になくしてしまって、いっそのこと+だけでいんじゃね? という気もしないでもない。しないでもないが、しっかりするわけでもない。強い意見を持っていない。この問題に関して強い意見を言って、いいことはひとつもない。とにかく触ったら即火傷をする話題なのである。
 ところで+の中には、僕も含まれるだろうか。僕の性的傾向は、じゃあDだな。DosukebeのD。普通の人に較べてだいぶ助平だが、それも多様性。許されて然るべき。持って生まれたものだからしょうがない。俺とタイガー・ウッズはもうしょうがないのだ。どうか受け入れてほしい。Dで集まって乱交デモしようぜ!

2022年11月14日月曜日

流行語・ボリューム・ゴーグル

 ユーキャンのほうの新語流行語大賞にやいのやいの言いつつ、もちろん僕も2年ぶりの自前の新語流行語大賞の選考が大詰めなのだが(初夏くらいから読み返し作業を始めたはずなのに結局こういうことになる)、それで読んでいた自分の記事に、吉野家の役員が放った「生娘をシャブ漬け戦略」のことが記録されていて、「あーっ!」と思った。今年の4月のことだった。半年経ってすっかり忘れていたけれど、パワーワードっぷりでは今年随一だったろう。
 こういう不謹慎系の言葉って、いくら強くても賞に選ぶわけにはいかないのが残念なところだ。あとあまり大きな声では言えないが、「マザームーン」という言葉も、かなりおもしろいと思う。でもこれは「生娘をシャブ漬け戦略」以上に絶対に無理だわな。

 体重が増えない。9月の上旬に、体を分厚くしたいと熱望し、ごはんとかをモリっと食べるほうの男性になろうと舵を切ったのだが、それから2ヶ月ほど経ち、どうなったかと言えば、体重計の記録を確認すると、9月7日時点で52.1kgだった体重が、いま53.1kg。増加に成功、というには数字の変化がささやかすぎると思う。それまで、そこまで大きくもない茶碗に、7割くらいしか盛っていなかったごはんを、あの日からはちゃんとした感じで盛ることにしたのだ。その結果が、2ヶ月で1kgの増加か。うーん。日々の筋トレやプールのおかげで、引き締まっている感じはある。でも厚みが物足りない。このところ身体でボリュームを褒められたのは、ちんこくらいのものだ。この話は本当に嬉しかったので、今後の人生で何度でも掘り返したいと思っている。

 愛用していたゴーグルが壊れた。後ろのバックル部分のプラスチックが割れて、固定できなくなってしまったのだ。実にリアルな、耐久限度を超えたのだな、という壊れ方だった。購入履歴で確認したところ、買ったのは2019年のはじめだったので、3年半使ったことになる。倉敷時代から現在に至るまで、その間かなりプールに通っていることを思えば、塩素に晒されながら、とてもよく持ってくれたものだと思う。購入価格を見たら1000円していなかったので、びっくりするくらいコスパがよかった。
 それで、また同じのを買いたいと思ったのだが、残念ながらもう販売していなかった。仕方がないので、同じような型の、でもせっかくなので色味がぜんぜん違うものを選び、注文した。そして到着したものを見てみたら、レンズが黄色かった。商品画像ではあまり伝わらなかったが(ミラーレンズなので)、レンズ部分が黄色い仕様なのだった。ゴーグルってたしかに、青とか赤とか、レンズがカラーになっているものが往々にしてあるが、これまでがオーソドックスなグレーだったので、そういう概念のことを忘れていた。着けてみると、なるほど世界が黄色く見える。黄色い下敷き越しに見る世界である。なんでだよ、と思う。でも日常で着けたら当然それは違和感があるけれど、プールで、それも泳ぐときだけに着けるのならば、わりとそういうもんかな、と思うかもしれないし、なによりなんの説明もなしになぜ黄色なのかと言えば、水色の中で黄色いレンズを着けたら、いい具合に中和されてとてもいい色味になる的な作用があるのではないか、と思った。
 そんなことなかった。黄色いレンズは、水中、水色の世界の中でもやはり黄色で、せっかくの爽やかで透明な水色が、黄みがかり、まるで泥まじりの汚い川の水ように見えた。なんでだよ、と思った。大失敗買い物だった。仕方がないので、ファルマンに窮状を訴え、別のものを買わせてもらうことにした。次はミラーじゃない、本当に透明のレンズのものにしようと思う。水の色をそのまま見たい。プールの水の色、スマホの待ち受けにするくらい好きだ。

2022年10月26日水曜日

誤用・マザー・インスタグラマー

 「袖触れ合うも他生の縁」という言葉は、「多少の縁」と誤解されがちで、意味を正しく理解していない人が多くいる、などと言われる。言わせておけ、と思う。こういう言葉の誤用話、大嫌いだ。言葉に誤用もなにもないと思う。元からあったほうを揺るぎない唯一無二の正解であると蒙昧に信じ込む輩というのは、固有種を是として外来種を忌避し、オオキンケイギクを駆除したりするに違いない。固有種なんて、この100年くらいの、記録が残っている中での、たまたまの姿だろう。そんなものを大事に保とうとする意味が分からない。
 話を元に戻すが、そもそも「袖触れ合うも他生の縁」は、ミスリードを誘っていると思う。間違えて取ってほしくないのなら、「袖触れ合うは他生の縁」のほうがふさわしい。「も」が、「多少」に繋げてしまっているのだ。「めでたさも中くらいなりおらが春」とか、「蓼食う虫も好き好き」の「も」である。そうやって、わざわざ勘違いされやすい言い回しをしておいて、よく誤解されるんですー、だなんて、かまってちゃんかよ。
 あとついでに、長年なんの疑問もなく目にしてきた「押しも押されぬ」という言い回しが、それは誤用であり、正しくは「押しも押されもせぬ」だという話になって、テレビ番組のナレーションなどでもそちらが使われるようになった。この5年くらいのことだ。これもまた気に入らない。「押しも押されもせぬスーパースター」よりも、「押しも押されぬスーパースター」のほうが、きちんと輝いているような気がする。これは、「得も言われぬ」を連想するからではないかとも思ったし、あとはやはり語呂だろう。「押しも押されもせぬ」の垢抜けないテンポに対して、「押しも押されぬ」は7音だ。5音と7音は強い。そもそも7音にしたくて省略したのかもしれない。だったら「押しも押されぬ」でいいじゃん、とも思うが、いま堂々と「押しも押されぬ!」と言ったら、阿呆どもがすぐさま「誤用だ」「誤用だ」と言い出すに違いない。じゃあもういっそのこと「オシモオサレヌ」とカタカナ表記にして、「押しも押されもせぬ」からは独立した、勢いだけの言い回しとして使ってやろうかな、と思う。

 マス目の数が指定と異なる漢字練習帳を買ってしまい(かなり細かい区分けがあるのだ)、学校には持っていけないというので、ファルマンがそれに日記を書くようになった。1日1ページで、イラスト付き。たまにサボったりもしている。子どもたちの話が多いので、自分のことが描かれていて嬉しい気持ちもあるのだろう、子どもたちが大笑いしながら読んでいる。
 そのさまを見て、たとえば引退した伝説のダンサーが隠遁生活を送っていたら、近所の孤児院からボランティアの協力を求められ、もちろんダンサーの素性などは誰も知らず、一介の年寄りとして参加するが、オルガンに合わせて踊るお遊戯が、他の大人とはかけ離れたレベルでやけに壮麗で、子どもたちが目を奪われる、というような、一種の貴種流離譚のようだと思った。子どもたちは無邪気に、お母さんが書く日記おもしろーい、くらいの感じだが、その人は実はただの日記がおもしろいお母さんじゃないんだよ、その人はかつて、ブログマザーと呼ばれる存在だったんだよ、と心の中で思った。表舞台に帰ってきてほしい。

 インスタグラムを、ちゃんと毎日アップ(シェア)している。なぜか途中からぱたりと「いいね」が付かなくなったが、めげずに日々やっている。ブログは飛び飛びなのに。こうなるともう、僕はブロガーではなくインスタグラマーと名乗るべきかもしれない。ブロガー仲間など存在しないが、しかし存在しないけど確実にもさい彼らに対し、インスタグラマーに転生した僕は、一気に洗練されてしまった。なんだか申し訳ないな。存在しない彼らに、申し訳なさを感じる。空気を食べているような気持ちだ。
 かつて「nw」で「ビキニショーツ製作漫談」として、作ったショーツを(丸めた状態で)画像で紹介していたが、3日ほど前から、インスタグラムで1日1枚シェアしているそれが、「nw」で紹介していない領域に突入している。だからみんな、地球のみんな、僕がどんなショーツを作ったのか、毎日ちゃんとチェックすればいいと思う。

2022年10月18日火曜日

会員・新しい形・インスタはるか

 10月に入ってから、通っているプールにひとつの変化があった。これまで、本当にあった怖い話のごとく、「行ったら必ずいる人」というのがいたのだが、その人の姿がぱったりと見えなくなった。これは一体どうしたことかと考え、もしかしたらあの人は、4月からの半年会員だったのではなかろうか、と思った。10月に入り、日が暮れてからの気温ががくんと下がるようになって、それでもせっせと通ってはいるのだけど、あたたかい時期だけの半年会員という選択も、あるにはあるな、などと、勝手に決めつけ、勝手に得心している。たぶん経験値が違う。なにぶんこちらは初めてなのだ。実はその初めての1年会員も、ただの1年会員ではなく、それよりも当然ながら金額が上乗せになる、家族会員というものを選んでいた。そんなわけで夏場は頻繁に娘たちを連れてプールに行ったのだが、子どもというのは夏以外にプールに行くと、わりと如実に風邪を引くものなので、1年のうち3、4ヶ月くらいしか利用できないということに、夏が終わったところで気付いた。なので家族会員ははっきり言って失敗だった(ちなみにファルマンはとうとういちども行かなかった)。来年以降、自分の1年会員はやったとしても、家族会員にはしない。経験値を積んだ。こうした経験の末に、4月から9月までの半年会員というスマートな境地はあるのだろうと思う。

 りゅうちぇるの言い放った「新しい家族の形」が、聞いた当初からおもしろかったが、いつまでもおもしろく、愛しい。ぜひ流行語大賞にノミネートしてもらいたいと思っているが、微妙なデリケートさも孕んでいる感じがあり、果たしてどうなのだろう。関係者は慎重に打診してもらいたいと切に願う。
 もちろん「新しい〇〇の形」という大喜利的な使い方も魅力的である。なんてったって多様性の時代ですから。全員共通の理想を追い求める時代は終わっていますから。それはちょっとどうなんだろうと思われるようなものでも、「新しい〇〇の形」と名付けてしまえば、周りはもう、ぐうの音も出ない。ぐうの音を出したら叩かれますからね!
 新しいセックスの形。新しいマスターベーションの形。新しいセクハラの形。新しい痴漢の形。新しいちんこの形。
 みんなちがってみんないい。

 10月から始めたインスタグラムを、今のところ毎日投稿している。
 いま投稿と言ったが、これに違和感を抱かなかったあなたは古い。インスタグラムにおける、「送信」なり「投稿」なり「公開」なりの、要するに作成した記事をアップするボタンの名称は、「シェア」だ。シェアなのだ。ウェブログとはそもそも目的が違うのだ。そんなに違うことってあるかよ、とそれを目にしたときは大きな衝撃を受けた。インスタグラムって、ウェブ日記とかブログとかをまったく知らない星の人が作ったものなのかもしれない、と思った。前にも書いたが、投稿内容は画像ありきで、文章は「キャプション付けます?」くらいの扱いでしかない。画像や映像に対して、文章ってそんな程度のもの、という事実は、これまでもいろいろな場面で痛感していたが、それをまざまざと見せつけられ、さすがにちょっとショックだった。なにぶん僕はほら、日本大学芸術学部キャプション学科出身だからして……。
 投稿にはぽつぽつと「いいね」が付けられている。「ハンドメイド」というハッシュタグを置いているためだろう、時折、ほっこり系ハンドメイドマルシェみたいなアカウントから、いいねが来ていたりして、大丈夫か、と思う。女の子が穿くようなショーツを穿きたくて自作している男の、ひたすらちんこ周りの話だぞ。ちゃんと読んでいるのか。読んでいないんだろう。まあハンドメイドイベントの主催者なんてそもそもだいぶ胡散臭いしな。見せかけだけで、内実はぜんぜんほっこりしていないに違いない。あと、プロフィール画像が綾瀬はるかのアカウントからもたびたびいいねが来ていて、この人は自分ではなにも投稿していないので素性はまるで分からないのだが、僕は実は本物の綾瀬はるかなのではないかと疑っている。逆に綾瀬はるかの画像を使って、まさか本物の綾瀬はるかだとは思われまいと思って油断している、どっこい実際の綾瀬はるかだと思う。そうか、はるかは俺の作ったショーツが、俺のちんこ周りの話が、好きか。さすがだな。

2022年10月10日月曜日

裸・さんま・整理

 急にガクンと寒くなったので、久しぶりに服を着て寝た。寒い時期は裸で寝なかったかと言えばそんなこともなくて、今年の2月3月あたり、まだぜんぜん寒かった時期から、僕は裸で寝始めたように思う。それでも今回は「急にガクンと」だったので、体や布団が追い付かないような気がして、仕方なく服を着て寝たのである。ちなみに上下ともである。
 その結果、どうだったか。裸で寝る信仰の人々が言う、衣服のゴムが血流を止めて体の調子が悪くなる、なんてことにはもちろんならない。逆に、久しぶりにそちら側に戻ってみたら意外と快適だった、ということもない。なんにも変わらなかったのである。服を着て寝ても、裸で寝た感じと、なんにも変わらなかったのだ。
 これは一体どういうことかと考えて、この半年あまり裸で寝続けた僕はもう、たとえ服を着ていても、裸で寝るように寝ることができるようになったのではないか、と思った。つまり裸で寝ようが、服を着て寝ようが、僕は裸で寝ているのだ。服を着ているタイプの裸で寝ている、と言うこともできる。ヌーディストたちは、裸のことを、裸ではなく、空衣をまとっているのだ、と主張するらしいが、逆もまた然りということか。人生は気付きの連続だな。

 さんまを食べる。新物である。9月になると、まるで新物のような素振りで、実は去年の解凍物らしいものが店頭に並ぶが、そこらへんのトラップには十分注意をして、おそらく正真正銘の新物らしいものを買って食べた。ちなみに1尾180円。ひと昔前の感覚からするとちょっと高い気もするのだが、サバやサケもじわじわ値上がりしているため、相対的にあまり抵抗なく買ってしまった。おそろしい話である。
 少し細身のような感じもあったが、それでも生さんまなので、おいしかった。もう今年の初物の生さんま、という時点で、おいしくなければ嘘と言うか、自分がこれまで日本で生まれ暮してきて築いてきたものが瓦解する感じがあるので、たぶんだいぶ思考停止でおいしかったと言っている。それでいいのか。いいのだ。

 3連休だったので、ずっとやりたいと思っていた、机周りの整理をする。どうも机周りの整理という行為を、半年にいちどくらいの頻度で大々的にやっている気がする。気のせいだろうか。今回は物をよく捨てた。結局、捨てなければこのごちゃごちゃが改善されることはないのだと喝破し、だいぶ冷徹にゴミ袋に投げ入れた。投げ入れたものは、かつて自分が必要だと思い、買ったり作ったりしたものだ。だからそれを捨てることは、その当時の自分のきらめいた気持ちも一緒に捨てることなのではないか、などと思う。危険な発想である。ばっさばっさと捨てた。布マスク作りに関する資材は、さすがに捨てはしないものの、だいぶ奥のほうへと追いやった。パパポッケマスク、爆売れするって確信していて、めちゃくちゃ材料を買い込んだのだよな。ダブルガーゼ、マスクゴム、ゴムストッパー……、マスク何百枚分もあるあれを、一体どうすればいいのだろう。数十年後くらいに、またなにか流行るかな。なんてね。僕がこのマスク材料を再び必要としない世の中が続けばいいなって思うよ……。半日かけて、へとへとになりながら、整理は完了した。とてもよくなった。とても機能的になったので、もう散らかって混沌とすることは二度とないと思う。僕の机周り整理史は、今回のこれによって終止符が打たれたと思う。