2024年11月27日水曜日

年間行事・愛の不時着・寝言アプリ

 今年も無事に年間行事をやり遂げることができた。「cozy ripple名言・流行語大賞」と、「パピロウヌーボ」である。とてもめでたい。
 また、あまり自画自賛しすぎるのもどうかとは思いつつ、シンパがいないのだから自分で言うしかないので言うけれど、今年の出来もすばらしかったと思う。毎年、大賞発表のプレゼンターと、パピロウヌーボのゲストという2名を誰にするか考える必要があり、今年の場合、後者のフワちゃんはわりと前から定まっていたのだけど、プレゼンターのほうがなかなか決まらなかった。いっそやす子にしてしまおうかとも思っていたのだが、寸でのところで水原一平のことを思い出して、ことなきを得た。
 去年、林葉直子がヒョードルとしてコメントする、というカオスな展開にした結果、ファルマンの反応が鈍かったパピロウヌーボであったが、今年は好評を得た。「それは『俺のむべなるかな』じゃなくて『僕のヒーローアカデミア』」のところがよかったそうだ。あと授賞式で水原一平のふくらはぎに嚙みついたのが、デコピンかと思いきやただの野犬だった、というところも褒められた。嬉しい。
 ああ、1年間の総決算、本当に愉しかったな。作業中、めくるめく愉しい日々であった。ではあったのだけど、ライフワークである「おもひでぶぉろろぉぉん」のほうが疎かになったという事実は否めず、そちらへの意欲もかき立っていた。ようやく大型イベントが終わったので、ふたたびそちらに戻ろうと思う。昨日少しだけやって、過去の僕は2008年の9月20日を迎え、25歳になっていた。25歳! 昔だな! そしてなんかいつまでも、現在に対して16~17年前くらいの関係性が続いている。もっとガンガン進めたいのだけど。

 Netflixで「愛の不時着」を観終えた。どうでしたか、と訊かれればもちろんおもしろかった。1話が1時間以上あるやつの全16話を観て「つまらなかった」という人間はあまりいないだろうと思う。
 いわゆる韓流ドラマというものを観たのはこれが初めてで、鑑賞の途中でも書いたけれど、なるほど女性にとってこれは紛うことなき性的刺激なのだろうな、と思った。恋愛および性行為で得られるのと同じ成分の快感が、韓流ドラマを観ている女性には絶対に発生していると思う。僕は話としておもしろいと思ったけれど、そちら方面の効用は得られないわけで、そこまでさかったように入れ込むということにはなりようがないな、と思った。
 ちなみに観終えてからファルマンに教えてもらって知ったが、主人公のふたりはこのドラマのあと、実際に結婚したそうである。それを聞いて僕は、思わず「三浦友和と山口百恵みたいじゃん」と言ってしまったのだけど、その次の日くらいに、なぜ自分はあんなことを言ったんだろう、と不思議な気持ちになった。せめて反町隆史と松嶋菜々子だったではないか、などと思った。

 流行語にもノミネートされた「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」を筆頭に、まれに僕が唱えるという寝言を、ファルマンが聞いたときは報告してくれるのだけど、当然ファルマンだって熟睡しているときもあるわけで、そういうときの寝言がもったいないと感じ、いっそのこときちんと寝言を録音する体制にしてはどうかと考えて、アプリをダウンロードしたのだった。枕元にスマホを置いておけば、物音がした際に勝手に録音を開始してくれるという。横で寝るファルマンは、「やだ、そんなの怖いじゃん」と嫌がっていたが、まあお試しでやってみようよ、ということで作動させて寝ることにした。
 その夜、午前2時のことである。「そのアプリ、やめてよ!」というファルマンの鬼気迫る声で起された。え? え? と戸惑っていると、「気になって眠れないから!」と強い口調で言われ、寝ぼけ眼のまま、わ、わかったよ、とアプリを解除したのだった。
 僕の寝言録音用である。当然、スマホは僕側の枕元に置くのである。冷たい言い方になるが、「お前は別に関係ない」のである。それだのにファルマンは、物音を立てると録音されるというのが気になって気になって、ぜんぜん寝付けなかったのだそうである。
 なんという、なんという自意識なのか。知ってはいたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。もはや自意識おばけと言っていい。さすがだ。
 かくして、寝言録音アプリは1日ともたず、アンインストールの憂き目となった。「どうしても録音したいなら別々の部屋で寝よう」と言われ、いや別に俺もそこまでして録音したいわけじゃないけど、でもそれにしたってこれってそんな過剰反応する事柄? と思った。
 そして、「自意識おばけ」って「人間ごっこ」の言い換えだな、とも思った。

2024年11月13日水曜日

聖・松本・靴下

 cozy ripple名言・流行語大賞のための1年間の日記読み返し作業を終える。
 11月にこの作業をして、毎年しみじみ思うこととして、自分が愛しい。なぜならこの人は、とてもまじめに生きているからだ。不条理なことや、不愉快なこと、さらには不可解なことなど、数え上げればきりがない、この澱んだどぶ川のような世の中において、まるで凛と咲く一輪の花のように、切なく、そして輝いている。その輝きはひとえに、心性の健やかさに起因する。それはもはや奇蹟と言っていい。なぜならこの腐った世界は、そんなふうに輝かずに生きたほうが、よほど楽なようにできているからだ。でもそれはたとえ楽でも正しくないという、この人にはそういう確固たる理念があるのだと思う。そしてその理念は、有り余る知性に裏打ちされている。蒙昧になにか教えられたことを妄信するのではなく、独自の思考の果てに、揺るぎない正義を立脚させているのだ。それゆえに強い。これほど尊くある人を、寡聞にして僕は他に知らない。
 cozy ripple名言・流行語大賞の発表とは、すなわち僕という人間の1年間を、敬い、慈しむことなのかもしれない。だとすればそれはとても聖なる行為、略して聖行為だし、僕による聖行為の対象となる僕自身もまた、僕に対して同じ気持ちであると考えれば、ここには聖的同意が発生すると言える。僕ら、いつまでも聖らかな関係でいようね。

 そんな俺の聖らかさに対して松本人志と来たらどうだ。
 「事実無根なので闘いまーす」と言って、今年の初頭から姿を消していた松本人志が、先日とうとう訴えを取り下げたじゃないか。
 前から言っているけど、事の発端である女遊びそのものは、どうだっていいのだ。松本人志の家族とか、相手女性の尊厳とか、そんなことは僕には無関係である。ただ、報道が出てからこっち、松本人志の動きがあまりにも不細工で、そのことにショックがある。
 いかにもおっさん臭い、ノスタルジックなことを言うけれど、「ごっつええ感じ」で「エキセントリック少年ボウイ」が初めて流れたとき、僕は衝撃を受けたのだ。大袈裟ではなく、おもしろさってこういうことか、と思った。そこで心を奪われたものだから、それからというもの、松本人志の振る舞いが少々目に余っても、それでもなんだかんだで愛し続けてきたのだと思う。
 しかしそういった素行の悪さや下品さが、ギリギリのところで、鬼才であるがゆえの尖りとして受け入れられていたのが、今回の件はちょっと毛色が違う。バチバチするような危うさは消え、その魅力がもたらしていた説得力も霧散し、ただ虚しい。そこに信じられなさがずっとあり、なんとなく目を逸らし続けている感覚がある。
 話にいちおうのけりがついたことで、年明けにも復帰するという報道がある。反対する気持ちはない。むしろ純粋に嬉しい。でも同時に怖い。出てきた松ちゃんがひどい有り様だったらどうしよう、という恐怖感がある。

 靴下のことで悩んでいた。
 夏の間は、ズボンが7分丈みたいなものばかりだったので、靴下もいわゆるくるぶしソックス的なものになり、後述するが、こちらは大丈夫なのだ。
 しかし涼しくなって、ズボンが長ズボンになると、それほど長いものではないが、ふくらはぎの途中くらいまではあるような丈の靴下を履くことになる。これが悩みの種なのである。
 なぜなら、男性物の靴下のデザインは、死ぬほどつまらないからだ。
 くるぶしソックスはそれでも、けっこう遊んでるものも売っているのだが、普通丈の靴下になると、そこはもう例の、黒・白・灰・紺・茶しかない世界が広がっている。本当にだ。本当にその色しかないのだ。成人男性はいったい何の神に何の罪を犯したことで、こんなにもファッションから色を奪われてしまったの、と嘆きたくなるほど、そんな色のものしか売っていないのである。
 それでも稀に、あるときある店で、まあこれなら履いてもいいかと思えるようなものに出会うことがあり、そういうときに入手することでこれまでなんとかやってきたのだが、最近はとみにそういう出会いがなくなり、いよいよ手持ちの靴下のかかとやつま先の生地が薄れてきて、火急の課題となっていた。
 しかしこの問題は先日、とあるひらめきによって一気に解決した。
 作ることにした、ではない。ハンドメイド靴下にはまだ進出しない。そうではなくて、今年の誕生日にもらった靴と同じ解決法である。
 すなわち、女性物でええやん、となったのである。女性物靴下、対応サイズが21cm~25cmなどとなっていて、だったらいけるんじゃないか、と思って買ってみたところ、ぜんぜんいけた。靴のときにも言ったが、ちんこと違い、足があまり大きくなくてよかった。
 女性物が大丈夫ということになると、一気に世界が拓けた。色とりどりの、ふざけたキャラクターとかが描かれた靴下が、すべておかずとして立ち上がってくるのだった。
 というわけで先日から、左右で色のちがう靴で、それを脱いだらパンダ柄の靴下、なんてふざけたスタイルで暮している。愉しい。

2024年11月9日土曜日

流行語・おせち・瀬古

 今年もユーキャンの新語・流行語大賞のノミネート語が発表となり、じっくりと噛み締めた。しかしどんなに噛み締めても、まったくもって味が薄く、感想を求められても途方に暮てしまうような、そんなラインナップであった。
 ただ、ニュース記事において、どうしても目に入ってしまうヤフコメを眺めていると、誰も彼もが偉そうに、この企画に対して批判的なことをのたまっていたので、逆に擁護したくもなった。カカロットを倒すのはこのベジータ様なんだからお前らがとやかく言うんじゃない的なムーブである。
 とは言え、そういう気持ちもありつつ、しかし、しかししかし、さすがにあんまりではないかと、30語を見てやっぱり思う。ただしこれは選考委員に対する不満ではない。自分も含めた国民全員に対する思いだ。みんな今年一年、言葉作りをサボりすぎた。だから1年がこんなに早かったのだ。言葉でその瞬間に楔を打たないと、時間はどんどん流れ去ってしまうのだ。
 30語のうちのひとつに、「名言が残せなかった」がある。やり投げ金メダルの北口榛花が言った言葉だそう。これはもはやとんちの世界だと思う。「名言が残せなかった」というフレーズが、新語・流行語のノミネート30語に入ったのだ。こいつは一本取られたな、じゃない。だって一本目の投擲で金メダルを確定させましたからね、じゃない。やりはまっすぐ投げたらいいだろうが、言葉はもっとひねりをきかせるべきだ。言葉作りに、投げやりになっちゃいけないよ、榛花。
 ちなみにユーキャンの向こうを張るcozy ripple名言・流行語大賞は、例年どおり11月23日発表予定となっております。年の瀬ですね。

 先日岡山に行ったとき、運転しながらおやつなどをパクつくわけだけれど、そのとき僕が食べていたのが、おなじみの鈴カステラと、あとチップスター(筒に入った成型ポテトチップス)で、しっとり甘い鈴カステラと、パリっとしょっぱいチップスターが、絶妙の組み合わせで、AからB、BからA、どちらの瞬間にも口の中に多幸感が生じ、感動したのだった。
 その感動を、僕はこう表現した。
「おせちだ」
 これは我ながら名表現ではないかと思った。延々と食べ続けられるものへの礼讃の言葉として、「おせちだ」はとてもいいと思う。
 無粋な解説をするならば、おせちがイメージ的に、とても格式の高い、ハレの日の贅沢品であるとされるものであるがゆえに、今回の鈴カステラとチップスターのように、要するにそれ、砂糖の小麦粉と塩の芋じゃねえかという、安っぽいものであればあるほど、そのギャップが愉快に感じられるのだ。だから、マックシェイクとマックフライポテトであるとか、五円チョコとうまい棒であるとか、そういうものを食んで、言えばいい。
「おせちだ」

 市民マラソンの大会で優勝した。そういう夢を見た。
 ほとんど飛び入りのような感じで参加して、普通に走っていたら、僕よりも速く走っている人が誰もいなくて、トップの座を明け渡すことなく、いちばんにゴールしてしまったのだった。流れで参加したものだから、家族も応援になど来ていなくて、ゴールしてから電話をし、テレビを付けるよう伝えた。テレビで中継されるような規模のマラソン大会だったのだ。実際にそんな大会で僕が優勝できるはずはないのだが、さすがは夢である、こんなこともあるんだな、と受け入れていた。小賢しいなと思ったのは、今大会の解説をしていたのが瀬古さんで、瀬古さんは大会を振り返り、そのレベルの低さに苦言を呈していた。ここに、(実際はぜんぜん合っていないが)帳尻を合わそうという魂胆が透けて見える。僕が優勝するマラソン大会など実際にはあるはずがないが、瀬古さんが憂うほどに選手のレベルが低かったわけで、そうなってくると僕が優勝というのにも若干のリアリティが出てくる、という計算らしい。完全な計算ミスである。憂うどころの話ではない。この瀬古さんのいる世界線の日本マラソン界、もとい日本国そのものは、運動能力的にもう完全に終わっている。そう考えると、国として完全に終わっているのに瀬古さんが解説している、というのが逆におもしろく思えてくる。なんかそういう夢だった。人の夢の話ってね。

2024年11月2日土曜日

布袋・寝言・新ブログ

 3部作となった「子羊たちのちんこ」がとても愉しかった。手応えがあった。たぶん読者の多いブログであったらば、「あれは反響が大きかった」などと語ることになったと思う。なんと切ない仮想であろう。読者が一切いない、反応が完全にないブログを十何年もやっていると、もはやこんな境地に至るのかと我ながら驚いている。
 反響の内容はさまざまだったが、誰もが押し並べて唱えたのは、自分の口から言うのは少し面映ゆいところがあるけれど、筆者である僕の優しさだ。僕としては思ったことをそのまま訴えただけだけど、それが結果として、読んだ人たちに優しさを感じさせたのだとしたら、これほどハッピーなことはないと思う。やっぱり、逮捕されたからすなわち悪い、では、思考する生きものである人間としての矜持が揺らいでしまう。思いを馳せ、寄り添い、慮る。これがプロペファイリングの骨子。君が好きだと叫びたいのと同じくらい、ちんこを出したいときってたしかにある。分かるよ。我慢は大事。でも心のインナーが我慢汁でもうグショグショになってしまったら、そのときはもう本丸を射出せざるを得ない。そういうものだ。
 事件から約1ヶ月が経ち、ニュース記事はもう読めなくなったりしている中、こうして男の汚名返上のために言葉を弄し続けることに対し、ファルマンからは「とんだ布袋行為だよ」と白い目で見られた。
 布袋行為とは、コブクロがマラソンレースの開会式で国歌独唱をした際、とんでもない感じで声が裏返ったという、僕なんか「つらい時かなしい時はコブクロの国歌を聴けと祖母の遺言」と短歌にさえ詠んだ、本人とランナー以外のあらゆる人を笑顔にした、あの一件があったろう、あれに関して、発生からたしか10日とか2週間くらい経って、世の中がさすがにそろそろ忘れかけていたタイミングで、コブクロの兄貴的存在らしい布袋寅泰が急に、「みんなあれで笑うのやめろよ」と、世間に対して諫める発言をし、それでまた息を吹き返して、みんなもういちどあの国歌独唱の映像を見て愉しくなった、という流れを表した、われわれ夫婦間における隠語である。つまり擁護しているように見せかけて、もういちど薪をくべること、これを布袋行為と呼んでいる。ちょうど不貞行為と語感が似ていることもあり、いいネーミングだと思う。
 僕の今回の「子羊たちのちんこ」がそれだって言うんですよ。失礼しちゃうよね。

 久々の寝言シリーズ。
 ファルマンがメモしてくれた。たまたま起きてメモしてくれたが、さすがに深い睡眠のときはファルマンだって起きないだろう。だとすれば誰にも聞かれることなく過ぎ去る寝言もたくさんあるはずだ。もったいない。聖なる俺の寝言なのに。
 その寝言がこちら。

「うん、あのね、きょうはね、うん、うん、……あ、やあらかい」

 これを、少年のような甘えた口調で言ったらしい。嬉しそうに。最後の「やあらかい」は、「やわらかい」ではなく、「やあらかい」であったという。
 なんか、こじらせたカルマを感じさせる寝言だ。41歳の僕の中にいる、まだ7歳くらいの少年の部分。そして性的欲求はその中間である19歳くらいのギンギンさを感じさせる。歪な危険性がある。
 「やあらか」かったのはなんだろう。普通に考えればおっぱいだろう。相対している人のそれについて言及したと考えるのが自然だ。でも僕のことだから、僕のことについて、相対している人に伝えているのだ、という可能性もある。その場合は金玉肉袋のことを指しているとも考えられる。どちらにせよそれは僕にとっては喜ばしいことだったようで、例のごとくまったく夢の記憶はないわけだが、愉しく過しているのならなによりだと思う。たしかに、感触が確かめられる対象が期待通りのやあらかさだった、というのは多幸感があるな、と感じ入った。
 一方的に寝言を記録してもらってばかりで申し訳ないので、たまには僕もファルマンの寝言を聞きたいものだと思うが、ファルマンはたまに獣のように慟哭する以外、寝言らしい寝言は一切唱えないのだった。あれはただ怖い。

 予告していたブログを作る。泳ぐことにまつわるあれやこれやに特化したブログ。
 タイトルは「swimming pooling」。
 最初は、同じアルファベットが2つ並ぶ単語という共通点から、「swimming pooling telling」とし、アドレスなんかはそれで登録したのだが、語呂が悪いしさすがにしつこいので要らないな、と思い直して削った。スイミングプーリング。
 ブログの背景を、プールらしさを感じさせるいい感じのものにしたいと考えていて、とにかくそこにこだわった。フリー素材からこれだというものをもらってきて、設定する。そして、透過にしないとせっかくの画像が隠れてしまうので、読みやすさなどはかなぐり捨て、雰囲気を優先させた。パソコン上では、マウスでドラッグさせて読めばいいと思う。モバイル上では、そこまで読みづらいということはないと思う。
 ブログのスキンは急に変えることもあるから、スキンについて語った文はあとから読むとなんの意味もなくなる、というのは十何年も前から経験則として知っているのだけど、こうして気張って設定した直後はどうしても語ってしまう。そういうところが好き。
 このブログに書くべきことを、これまで別のブログに書いてきたので、既にいちど語ったことを、改めてこちらに書き直す、ということもあるだろうと思う。そのあたりのことをあらかじめご理解いただきたいと、いない読者に向かって平身低頭する。腰が低くて好感。