酒って、飲んだら飲んだでもちろん満ち足りた気持ちになるけれど、その一方で酒を飲まない夜を過ごすと、その清廉さ、省エネさ、負荷のなさに、ともすれば酒を飲んだとき以上にテンションが上がったりもする。俺、このままめっちゃ上質な人間になるかもしれないぞ! と心が浮き立つのである。これは下戸の人には決して味わうことのできない喜びだ。どうだ、うらやましいだろ。うらやましがってくれないと、あまりにも切ないじゃないか。
もちろん週末は飲む。これから飲むのは週末だけにしよう、という決意を、もう何十回もしている気がする。
初めて行った図書館に「あさきゆめみし」(大和和紀)が全巻揃っていたので、借りて読んだ。おもしろかった。源氏物語ってこういう話だったんだ、というのを40歳にして初めてちゃんと知ったのだった。文芸学科というものは、あれは本当に、いったいなにを学ぶ場所だったんだろうな。国文学科とは違う、というのは分かるけれど、じゃあ古典の代わりになにをやっていたのかと訊かれると、答えに困ってしまう。
それにしても「光る君へ」をやっているタイミングで「あさきゆめみし」を読むというのは、なんだかとても素直な行ないで、前に音楽のサブスクでおすすめの音楽が出てくるのを、僕は音楽に関してプライドがないからすんなり受け入れられるが、本に関してはこうはいかない、という話をしたけれど、案外そんなこともない。なくなった、のかもしれない。
光源氏はとてつもない下半身男なのに、家柄とビジュアルの良さでなにもかもが許されているという設定で、千年前から結局ひたすらそういうことなんだな、と思った。家柄とビジュアルさえ良ければ、ありとあらゆることは認められる。過去も、現在も、未来も、それはずっとそう。この世の真理。だから千年読まれてきたし、これからも読まれ続ける。さすがだな、と思った。我ながらバカみたいな感想だな。
AI画像の進化がすごくて、本当にエロの、セックスとかフェラとか、そういうものになると、まだちょっと本物の迫力にはだいぶ劣る感があるけれど、雑誌の水着のグラビアくらいの画像は、もう本物とあまり遜色ないというか、なにぶんAIのそれは顔も体も完璧を希求してデザインされているものだから、これはだいぶデリカシーのない表現になるけれど、そんじょそこらの本物では太刀打ちできないレベルに至っていると思う。
そもそも水着グラビアとは、生活感のない、ともすれば被写体本人にエロの概念もない、でもなぜかビキニ姿で、やけに無邪気にはしゃいでいるという、独特の世界観のもので、いまどき水着姿でエロもなにもないというのに、なぜ水着グラビアという文化はなくならないかと言えば、それはそこに理想の平和世界があるからだと言えるが、だとすればそれというのは、実は生身の芸能事務所に所属している女の子より、画像がこの世に生まれたその瞬間に生成された、こうあってほしいと願った非実在の女の子のほうが、むしろふさわしいのだ。生身の女の子がどんなにがんばっても、水着グラビアという土俵においては、非実在の女の子には勝てない。こちらが水着グラビアの被写体として求めているのは、無機性というか、個性のない、イデアとしての水着姿の女の子だからである。
だからもうすべてのグラビアアイドルは、すぐさま白ビキニを脱ぎ、それを白旗とし、まだAIに落とされていないエロの領土へと進軍すればいいと思う。