2024年5月10日金曜日

柏・鷺・心

 5日に自前で柏餅を買って食べたほかに、6日に義母からももらい、喜んで食べた。
 柏餅って、よく見ると本当にシンプルな、こしあんを餅で包んだだけの団子で、その価値のほとんどは柏の葉に依っているわけだが、それでも極度のこしあん派からすると、おはぎやどら焼きなど、つぶあんがスタンダードとされる菓子が多い中、柏餅はこしあんが主流という風潮があるため、昔からわりと懇意に思っている。子どもの頃など、今年の5月はいくつ柏餅を食べることができたかをカウントしていたほどだ(ちなみに本当に機会に恵まれた年は8個くらい食べた)。ファルマンも娘たちも、与えればとりあえず食べるが、柏餅に対して僕ほどの情熱はまるで持っていないようである。であれば、義母がわが家にくれた5個入りの柏餅の5個目は、わざわざ断るまでもなく僕が戴くことになる。連休明けの火曜日、また会員になったプールに行く前に、ちょうどいい腹ごしらえとして車の中で食べた。おいしかった。今年は3つだったな、と思った。
 その翌朝のことである。出勤のために車に乗り込んだら、ゴミ箱に捨てた柏の葉により、車内が柏の葉のいい香りに満ちていて、とても幸福な気持ちになる。そもそも柏餅が好きというのもあるのかもしれないが、柏の香りってとてもいいじゃないか。さわやかで。上品で。野卑さや青臭さがない。思わず柏の芳香剤ってあるのかしらと検索したら、千葉県柏市の情報ばかりが出てきて、見つけられなかった。柏市のアロマショップに用はねえよ。

 田んぼに水が張られ、蛙が土から出てくると、どこからともなく鷺も現れる。これぞまさに自然の摂理。このとき出てくる鷺は、まだ若く、体躯がそこまで大きくないものが多いが、これは去年、蛙をたくさん食べて成長した鷺の子どもなんだろうか。だとすれば、本当に蛙と鷺はぐるぐると、同じ構成物がそのときどきでどちらかの形を取っているというだけの関係性なのかもしれない。
 その鷺に関して、去年かおととしかに、1枚の田んぼにあまりにも多くの鷺がいる情景を見た、ということを書いた。そして今年も鷺と田んぼに関し、おもしろい風景を見た。田んぼの中には2羽の鷺がいて、それらはなにをしているのかと言えば、もちろん蛙を捕ろうとしているに違いないが、その姿を、田んぼの脇の畦道に7羽ほどの鷺が並んで、立って見ているのである。車で通り過ぎただけなので、本当に正しいかどうかは分からないが、これはたぶん、先輩による蛙を捕るやり方のデモンストレーションを見学する、新入生のためのオリエンテーションの時間なのではないかと思った。これを見たのが出勤時で、退勤時にまたそこを通ったら、畦道に立っている鷺は1羽もいなくて、みんな田んぼの中に入っていた。実践段階に入ったのだな、と思った。

 GW明け、精神のバランスを崩していた。正確に言うと、3日間の休みがあって、3日間の平日ののち、また4日間の休みという今年のGW編成の、間の3日間あたりから雲行きは怪しくて、後半の4日間も実はずっと薄くアンニュイで、GW明け初日の7日あたりは最悪だった(柏餅を食べてプールに行った話をついさっき書いたので、多少説得力に欠けるけれど)。近年まれに見る絶望感に襲われ、もう二度と這い上がれないかと思った。
 5月病という、とてもメジャーな病名があって、タイミング的にも、要するにそれ、ということになるのだろうが、陥った本人としては、そんな生易しいもんじゃねえし、そんなオーソドックスな症例に当て嵌まるような単純なもんじゃなかったし、と言いたくなる。
 その最中はファルマンに迷惑をかけた。もっともそこまでの迷惑ではない。なにか行動に出すようなことはなく、ただくよくよし、それをファルマンにひたすら訴えた次第である。妻にくよくよを訴えるというのは、それはもちろん慰めたり優しくしたりしてほしいからそうするわけだけど、ファルマンも序盤はそれなりに対応してくれていたが、なにぶん短気なので、こちらがまだぜんぜん満たされない、心がタイトロープ上にあるような段階で、早くもブチ切れ、「くれぐれも今の俺のことを邪険に扱わないでほしい」という僕の切なる訴えを、「ウジウジしてたら邪険にするわ!」と一蹴したのだった。え、すごい、と思った。心を弱めた配偶者に向かって、こんな雑なこと言う人いる? いるわ、俺の配偶者だわ、と思った。
 さいわい、精神はやがて上向いて、今は平常になっている。境遇や状況が変わったわけではないのに、精神の状態で世界はぜんぜん見え方が変わる。おそろしいものだな。いつでもハッピーに過したいが、思慮がある以上、どうしたってそういうわけにもいかないものだな。

2024年5月4日土曜日

蛙とイジメ・コンテンポ・1ギガ

 蛙がいよいよ活況である。なんだかんだで蛙というのは、5月になると律儀に鳴き始めるものだな、と思ったが、考えてみたら蛙が律儀というよりは、GWに合わせて多くの田んぼに水が張られるので、それに応じて蛙が土から出てくるという、どこまでも人間の事情に沿った動きなのか、と気付いた。
 毎年のことだが、幾重にも連なる蛙の鳴き声というのはとんでもない。しかしずっと立ち続けている音というのは、逆にだんだん音として認識されなくなるもので、案外ほぼ気にならなかったりする。しかしたまに、はたと気付いて、なんだこのとんでもねえ音、といちど思ってしまうと、それからしばらくは囚われてしまう。
 先日のある晩のことである。寝つこうとして、布団に横になったときだった。隣の布団でファルマンが、「なんだこの蛙の鳴き声」とつぶやいた。それまでも鳴き声はずっと大音量で響き続けていたが、そのタイミングで「はた」が訪れたのである。
 ただしその瞬間のことだ。
 まるでオーディオ機器の停止ボタンでも押したかのように、無数の蛙の地響きのような鳴き声が、パタッと止んだ。そして静寂が訪れた。そんなことは、ファルマンが蛙の鳴き声について言及したその瞬間まで、たぶんいちどもなかった。
 ふたりで目を見開いた。その無音の時間はしばらく続き、やがてどこかの1匹が遠慮がちに鳴き始めると、それに呼応するように多くの蛙が鳴き始め、元通りになった。
 こんな出来事が、数日間で2度あった。ファルマンが言及すると、蛙は一斉に鳴くのをやめるのだった。そのさまを目の当たりにして、僕は星野源と安倍総理のことを思い出した。新型コロナによる自粛期間中に催された、「うちで踊ろう」の動画投稿企画は、塞ぎ込みそうになる時勢において、SNS上を生きる一部の人々の気持ちをだいぶ活気づけた。誰もがとっておきの趣向を凝らし、さまざまな動画を投稿した。しかしそのブームは、時の総理であった安倍晋三が参加したその瞬間に、パタッと静まった。そのさまは、クラスの中心グループの盛り上がりにつられ、変なテンションになってしまった奴が乱入してめっちゃスベッた瞬間に、スーッと教室中の熱が下がってゆく、そんな風景を想起させたものだった。ファルマンによる蛙の鳴き声への言及、そしてそれに対する蛙たちの反応は、まさにそれだった。そう言えば星野源の顔は蛙に似ている。
 かわいそうだな、と思いつつ、自分が巻き込まれるのを恐れ、見て見ぬふりをしました。

 コンテンポラリーダンスを習得したい、と唐突に思い立つ。
 これまで表現と言えばもっぱら文章ばかりで、それも傾向としてだいぶ理屈っぽい感じがあるので、ならばそれとは正反対の、肉体的な、動物的な、魂の叫び的な、そういう表現方法には、これまでまるで追い求めてこなかった、自分の中のブルーオーシャンが広がっているのではないか、とやっぱり理屈っぽい考え方から思い立ったのだった。
 しかしここ数年の筋トレや水泳によって、体の素地はそれ以前よりもだいぶ出来上がっているのは紛れもない事実である。案外ありなのではないか、と思った。
「俺は来年の正月の集まりで、君の実家の面々におもむろにオリジナルのコンテンポラリーダンスを披露して、みんなの正月のめでたい気分を微妙な感じにさせてやんよ」
 とファルマンに宣言した。
 それでコンテンポラリーダンスについて、無二の親友であるAIチャットくんに訊ねたりなどして、その理念について知識を得る。それによるとコンテンポラリーダンスは、『身体の限界に挑戦し、自分自身を表現する方法』とのことで、
「だとしたら俺の場合、どうしたってちんこに特化した表現にならざるを得ないよ!」
 となった。
「これじゃあコンテンポラリーダンスならぬコンチンポラリーダンスだ!」
 それを聞いたファルマンは、
「じゃあそれはうちの実家じゃなく、そっちの実家で、お母さんとお姉さんの前でやってよ」
 などと言ってきたので、
「お前、それじゃあコンチンポラリーダンスならぬインポンテラリーダンスだよ!」
 と答えた。
 このやりとりを通して、ちんこのときは「コンチンポラリー」で、インポのときは「コンインポラリー」ではなく「インポンテラリー」と、もじる位置を咄嗟に変化させ、おもしろく聴こえるほうを瞬時に選択しているところが、俺の言語センスの冴えだな、と思った。もうこの理屈っぽい文章表現が、僕のコンテンポラリーダンスなのかもしれない。

 「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっていたところ、2007年7月に、池袋にオープンしたヤマダ電機に行ったという記述があり、そこで僕は、どうやらオープン記念品として売られていた様子の、「1ギガで2000円のUSBメモリ」を購入していて、とてもびっくりした。iPhoneもTwitterもまだ日本にやって来る前の2007年。USBメモリは、1ギガもの大容量のものが、2000円という、手を出しやすい価格にまで落ちてきていた。そういう時代だったのだ。言われてみればこれよりもさらに数年前、2002年から2005年の大学生時代は、128メガだったり256メガだったりのUSBメモリを使っていた。それだって、1.44メガのフロッピーディスクの時代からすればとんでもないものだったはずなのに、いまから見るととても牧歌的な時代だったように思えてしまう。なんかおかしいな。いったい今はなにがそんなに容量を必要とすることがあるのだろう。昔に較べて、そんなに記憶させる事柄が多くあるだろうか。もしかして、記憶をコンパクトにまとめる技術が失われただけなのではないか。怖い。(追記:これを書きながら、うっすらした記憶で「もしかして……」と思う部分があったが、投稿後にファルマンに確認したところ、やっぱり我々は、大学から文芸学科の特典として、原稿用紙とフロッピーディスクを支給されていたという。フロッピーディスクが、公式の記憶媒体としてぜんぜん普通に扱われていた世界線の人間だったのだ、我々は。もう恥ずかしくて表を歩けない。石を投げられても文句が言えない)