5日に自前で柏餅を買って食べたほかに、6日に義母からももらい、喜んで食べた。
柏餅って、よく見ると本当にシンプルな、こしあんを餅で包んだだけの団子で、その価値のほとんどは柏の葉に依っているわけだが、それでも極度のこしあん派からすると、おはぎやどら焼きなど、つぶあんがスタンダードとされる菓子が多い中、柏餅はこしあんが主流という風潮があるため、昔からわりと懇意に思っている。子どもの頃など、今年の5月はいくつ柏餅を食べることができたかをカウントしていたほどだ(ちなみに本当に機会に恵まれた年は8個くらい食べた)。ファルマンも娘たちも、与えればとりあえず食べるが、柏餅に対して僕ほどの情熱はまるで持っていないようである。であれば、義母がわが家にくれた5個入りの柏餅の5個目は、わざわざ断るまでもなく僕が戴くことになる。連休明けの火曜日、また会員になったプールに行く前に、ちょうどいい腹ごしらえとして車の中で食べた。おいしかった。今年は3つだったな、と思った。
その翌朝のことである。出勤のために車に乗り込んだら、ゴミ箱に捨てた柏の葉により、車内が柏の葉のいい香りに満ちていて、とても幸福な気持ちになる。そもそも柏餅が好きというのもあるのかもしれないが、柏の香りってとてもいいじゃないか。さわやかで。上品で。野卑さや青臭さがない。思わず柏の芳香剤ってあるのかしらと検索したら、千葉県柏市の情報ばかりが出てきて、見つけられなかった。柏市のアロマショップに用はねえよ。
田んぼに水が張られ、蛙が土から出てくると、どこからともなく鷺も現れる。これぞまさに自然の摂理。このとき出てくる鷺は、まだ若く、体躯がそこまで大きくないものが多いが、これは去年、蛙をたくさん食べて成長した鷺の子どもなんだろうか。だとすれば、本当に蛙と鷺はぐるぐると、同じ構成物がそのときどきでどちらかの形を取っているというだけの関係性なのかもしれない。
その鷺に関して、去年かおととしかに、1枚の田んぼにあまりにも多くの鷺がいる情景を見た、ということを書いた。そして今年も鷺と田んぼに関し、おもしろい風景を見た。田んぼの中には2羽の鷺がいて、それらはなにをしているのかと言えば、もちろん蛙を捕ろうとしているに違いないが、その姿を、田んぼの脇の畦道に7羽ほどの鷺が並んで、立って見ているのである。車で通り過ぎただけなので、本当に正しいかどうかは分からないが、これはたぶん、先輩による蛙を捕るやり方のデモンストレーションを見学する、新入生のためのオリエンテーションの時間なのではないかと思った。これを見たのが出勤時で、退勤時にまたそこを通ったら、畦道に立っている鷺は1羽もいなくて、みんな田んぼの中に入っていた。実践段階に入ったのだな、と思った。
GW明け、精神のバランスを崩していた。正確に言うと、3日間の休みがあって、3日間の平日ののち、また4日間の休みという今年のGW編成の、間の3日間あたりから雲行きは怪しくて、後半の4日間も実はずっと薄くアンニュイで、GW明け初日の7日あたりは最悪だった(柏餅を食べてプールに行った話をついさっき書いたので、多少説得力に欠けるけれど)。近年まれに見る絶望感に襲われ、もう二度と這い上がれないかと思った。
5月病という、とてもメジャーな病名があって、タイミング的にも、要するにそれ、ということになるのだろうが、陥った本人としては、そんな生易しいもんじゃねえし、そんなオーソドックスな症例に当て嵌まるような単純なもんじゃなかったし、と言いたくなる。
その最中はファルマンに迷惑をかけた。もっともそこまでの迷惑ではない。なにか行動に出すようなことはなく、ただくよくよし、それをファルマンにひたすら訴えた次第である。妻にくよくよを訴えるというのは、それはもちろん慰めたり優しくしたりしてほしいからそうするわけだけど、ファルマンも序盤はそれなりに対応してくれていたが、なにぶん短気なので、こちらがまだぜんぜん満たされない、心がタイトロープ上にあるような段階で、早くもブチ切れ、「くれぐれも今の俺のことを邪険に扱わないでほしい」という僕の切なる訴えを、「ウジウジしてたら邪険にするわ!」と一蹴したのだった。え、すごい、と思った。心を弱めた配偶者に向かって、こんな雑なこと言う人いる? いるわ、俺の配偶者だわ、と思った。
さいわい、精神はやがて上向いて、今は平常になっている。境遇や状況が変わったわけではないのに、精神の状態で世界はぜんぜん見え方が変わる。おそろしいものだな。いつでもハッピーに過したいが、思慮がある以上、どうしたってそういうわけにもいかないものだな。