世の中から普通の低脂肪乳が駆逐され始めている。前にも書いた。
僕が欲しいのは、普通の牛乳から脂肪分だけを取り除いた感じのやつで、かつては100円前後で売っていたものである。今はそれより値上がりした。それは受け入れよう。しかし値上げの前からあった流れとして、売り場で200円前後の普通の牛乳の横に置かれる低脂肪乳ポジションに、そういう純然たる低脂肪乳ではなく、脂肪分と一緒にたんぱく質の含有も少なくなり、その代わりに鉄分とかカルシウムとかビタミンDとかが添加されている、よく分からない乳飲料がのさばるようになってきただろう。じわじわと軍門に下るように、あのスーパーも、あのドラッグストアも、という感じで低脂肪乳はそっちの乳飲料へと移り変わり、今ではあの低脂肪乳を置く店のほうがすっかり希少になってしまった。そして、あったとしても牛乳と変わらない値段だったりする。これがまた納得いかない、と思うのだが、なぜ納得いかないと思うのかと言えば、かつては100円前後で売っていたではないか、ということと、脂肪分を抜いているのだから、脂肪分分安くなって然るべきだろう、という発想からなのだけど、でもよく考えてみたら、脂肪分を抜くのって、普通の牛乳にひと手間かけているわけで、実は向こうにしてみたら、ぜんぜん安く売る筋合いはないのかもしれない。そこらへんの錯誤が是正されて、今日の状況があるのかもしれないと思った。
通っているプールには流れるプールがあって、そっちは基本的にレジャー目的で利用されるものであり、混んでいる夏の日でも、人口密度の高い流れるプールを尻目に、俺は人の少ない、ストイックな、ただの25mプールで泳ぐんだよな、というスタンスを基本的にこの何年か続けていたのだけど、先日から、流れるプールを流れと逆向きに歩く、という趣向を始めた。ちなみに公式に認可されている行為である。
泳ぐという行為は、筋トレになるのかならないのかという問いの答えは、「そんなにならない」というのが正しいようで、それというのは、泳ぎが達者になればなるほど、つまりは水の抵抗をやり過ごすテクニックを身につけるということなので、その結果として負荷を必要とする筋トレからは離れるわけである。
そのあたりに若干の忸怩たるものを感じ、普通にひとしきり泳いだあと、筋トレ目的としての流れるプール逆歩きをすることにしたのだ。やってみてすぐ、これはいいと思った。水流に逆らって歩くのが脚に効くのはもちろんのこと、腹にも胸にも絶え間なく重たい水がぶつかるので、これはいい刺激になると思った。
そして2週間ほど、この間に行った5、6度のプールで毎回そんなことをしていたら、体はどうなったかと言えば、なんかもう常にじっとりとした疲労が全身にへばりつくようになって、生きるのが大変になってしまったので、もうやめた。負荷と疲労の塩梅はかくも難しい。
音楽の定額制サービスを活用している。ようやく活用できるようになった。
これまでは、好きな歌手、好きな曲(主に懐メロ)を検索して聴くのに使っていた。それは言わば「ゲオに行かなくて済む」だけの使い方で、あまりサービスに毎月定額のお金を払っている意味がなかった。
近ごろはそうではなく、テレビで流れて、ちょっといいなと思った歌手を検索して、その人の曲を聴くのはもちろんのこと、その歌手のページ(ページとは言わない気もする)の下のほうには、その歌手に似たテイストだったり、あるいはその歌手の曲を聴く人が聴きがちだったりする、別の歌手が羅列され、その歌手からまた別の歌手へ、という感じで、数珠つなぎでどんどん知らなかった歌手の聴いたことのない曲が聴ける。そして聴いているうちに、自分の好きな音楽というのがどんどん分かってくる。これがすごく愉しい。裁縫をしながら、毎日いろいろな曲を流せ、飽きない。QOLが上昇している感じがする。
ファルマンはこういう使い方はしていない。「ゲオに行かなくて済む」だけだ。でもこれは責められない。ファルマンは音楽に関して、僕よりもこだわりがあるので、どうしたってそうなるだろう。僕は音楽に強いこだわりがない。特別好きな歌手というのもいない。だからできる。特別に感じるものがあるというのは、いまの言葉で言うと「推し」ということになり、それは推すという行為をする自己の矜持にも直結するだろう。最近の、「推し」と言いながらの自己表現みたいな文化を見るにつけ、そう思う。
音楽にはないけれど、本に関しては、僕にもこの矜持があって、だから本については他人のおすすめしたものには目もくれない。他人が絶賛しているものは逆に拒絶したりする(内容を、ではなく、読むのを)。ビッグデータにおすすめされるがままに、音楽を屈託なく聴く自分を眺めていると、こだわりがないって楽で生きやすいのだな、としみじみと思う。ただしその生きやすさは、人間的な魅力とは往々にして相反するもので、なんのこだわりもない自由な人間とは、一緒にいてもぜんぜん愉しくないだろうとも思う。その点、音楽にも本にも屈託のある妻の、その人間的な魅力と、その生きづらそうさたるや。