話を元に戻すが、そもそも「袖触れ合うも他生の縁」は、ミスリードを誘っていると思う。間違えて取ってほしくないのなら、「袖触れ合うは他生の縁」のほうがふさわしい。「も」が、「多少」に繋げてしまっているのだ。「めでたさも中くらいなりおらが春」とか、「蓼食う虫も好き好き」の「も」である。そうやって、わざわざ勘違いされやすい言い回しをしておいて、よく誤解されるんですー、だなんて、かまってちゃんかよ。
あとついでに、長年なんの疑問もなく目にしてきた「押しも押されぬ」という言い回しが、それは誤用であり、正しくは「押しも押されもせぬ」だという話になって、テレビ番組のナレーションなどでもそちらが使われるようになった。この5年くらいのことだ。これもまた気に入らない。「押しも押されもせぬスーパースター」よりも、「押しも押されぬスーパースター」のほうが、きちんと輝いているような気がする。これは、「得も言われぬ」を連想するからではないかとも思ったし、あとはやはり語呂だろう。「押しも押されもせぬ」の垢抜けないテンポに対して、「押しも押されぬ」は7音だ。5音と7音は強い。そもそも7音にしたくて省略したのかもしれない。だったら「押しも押されぬ」でいいじゃん、とも思うが、いま堂々と「押しも押されぬ!」と言ったら、阿呆どもがすぐさま「誤用だ」「誤用だ」と言い出すに違いない。じゃあもういっそのこと「オシモオサレヌ」とカタカナ表記にして、「押しも押されもせぬ」からは独立した、勢いだけの言い回しとして使ってやろうかな、と思う。
マス目の数が指定と異なる漢字練習帳を買ってしまい(かなり細かい区分けがあるのだ)、学校には持っていけないというので、ファルマンがそれに日記を書くようになった。1日1ページで、イラスト付き。たまにサボったりもしている。子どもたちの話が多いので、自分のことが描かれていて嬉しい気持ちもあるのだろう、子どもたちが大笑いしながら読んでいる。
そのさまを見て、たとえば引退した伝説のダンサーが隠遁生活を送っていたら、近所の孤児院からボランティアの協力を求められ、もちろんダンサーの素性などは誰も知らず、一介の年寄りとして参加するが、オルガンに合わせて踊るお遊戯が、他の大人とはかけ離れたレベルでやけに壮麗で、子どもたちが目を奪われる、というような、一種の貴種流離譚のようだと思った。子どもたちは無邪気に、お母さんが書く日記おもしろーい、くらいの感じだが、その人は実はただの日記がおもしろいお母さんじゃないんだよ、その人はかつて、ブログマザーと呼ばれる存在だったんだよ、と心の中で思った。表舞台に帰ってきてほしい。
インスタグラムを、ちゃんと毎日アップ(シェア)している。なぜか途中からぱたりと「いいね」が付かなくなったが、めげずに日々やっている。ブログは飛び飛びなのに。こうなるともう、僕はブロガーではなくインスタグラマーと名乗るべきかもしれない。ブロガー仲間など存在しないが、しかし存在しないけど確実にもさい彼らに対し、インスタグラマーに転生した僕は、一気に洗練されてしまった。なんだか申し訳ないな。存在しない彼らに、申し訳なさを感じる。空気を食べているような気持ちだ。
かつて「nw」で「ビキニショーツ製作漫談」として、作ったショーツを(丸めた状態で)画像で紹介していたが、3日ほど前から、インスタグラムで1日1枚シェアしているそれが、「nw」で紹介していない領域に突入している。だからみんな、地球のみんな、僕がどんなショーツを作ったのか、毎日ちゃんとチェックすればいいと思う。