先日、結局は大事に至らなかったのだけど、喉が掠れる感じがあり、それは子どもたちが例のごとくどこかから持ち帰った風邪を、例のごとく順繰りにこなした直後のことだったので、ああやっぱり避けきれなかったか、と暗い気持ちになりながら、マスクをして眠ることにした。しかしマスクを着けて寝ようとしても、寝て肉体が本能に支配されると、どうせすぐにマスクは取ってしまうのだよな、と思った。思いながら寝た。そして数時間後に起きたところ、口元にマスクがそのままの形で残っていたので驚いた。ああ、もう体が、本能が、マスクのことを異物として捉えなくなったのだ、と思った。人類の、何十何百何千年の蓄積ともいうけれど、案外その一方で、1年くらいでがらりと変わることもいっぱいあると思った。
ファルマンにブラウスを3着作り、基本的には軽快に作業を行なったのだが、最後に気の重い工程があって、それはボタンホール作りである。ボタンホール縫いは家庭用ミシンを使わねばならず、しかもそのミシンが、機能的にもともと頼りないのに加え、近ごろは寿命的な息切れも感じさせはじめてると来ては、スムーズに済むはずがなく、案の定おおいに難航した。特に困難なのは、襟とカフスの、生地が厚い部分の縫いだ。途中で糸が切れたり、送り歯が止まったり、何度も失敗を繰り返す。そして何度も失敗すると、生地がだんだん力なくなってくるので、ますますくしゃくしゃになりやすくなるし、なにより仕上がりに影響してくる。とにかく嫌で嫌でしょうがないのだった。それで苦労しながら、ああ、もっとボタンホールを縫うのが得意なミシンが欲しい、と心の底から思う。そこで検索してみたところ、そういうことを謳っているミシンは、普通のものよりちょっと高くて、7万円くらいしていた。7万……、ボタンホールのために7万……、と逡巡する。それにしたって失敗が続く。縫える気配がない。もう嫌だ。ほどくのに時間ばっかり掛かる。かといって7万のミシンをポンとは買えない。どうしよう、どうしよう、と悩んだ結果、もういっそのことこれでいいじゃねえか、とひらめく。すなわち、最後に開ける予定の穴の印の周りを、工業用ミシンで5周くらい縫うのである。毎周、少しずつずらして、太いステッチになるような感じで、穴を開ける部分を囲う。そんでもって穴を開ける。なんでえ、これでよかったんじゃんか、と思った。工業用ミシンでならば、正確に印を囲んで縫うことができるのだ。これで十分に、ボタンホールとしての要件は満たす。どうも「ボタンホール縫い」という言葉に縛られ過ぎていたようだ。縫製が終わったあと、家庭用ミシンを引っ張り出してきて、にっちもさっちもいかないボタンホール縫いをするという作業がなくなったことで、服作りに挑む気持ちがとても軽くなった。とても嬉しい。
ファルマンがとうとう免許を取るということで、5月の終わりごろに、車の購入の手続きをした。車がなければどこにもいけないこの地域で、ファルマンが行動をするために免許を取ったわけで、車がもう1台なければどうしようもない。なので買うほかない。これまでのMRワゴンを主にファルマン用とし、主に僕用として新しい車を買うことにした。そしてどうせ買うならば、やっぱり軽というわけにはいかず、普通車、それも実家の近くに住んでいるということを思えば、いざというときにもう少し多く人が乗れる車のほうがいいのではないか、などと考え、かといってワゴン車ほど大仰なものはさすがに嫌なので、まあ現代においてこのあたりの希望を持つ輩というのは、ほぼ二択、ホンダのフリードか、トヨタのシエンタのどちらかを選ぶことになるわけで、どちらにも試乗した結果、わが家は前者を選んだ。「ちょうどいい」のやつ。かつてCMに東出昌大が出ていたやつ。納車はまだなのだが、試乗した感想として、軽自動車の世界の、愛嬌などの尺度とはまるで異なる、どこまでも実用的な車で、完全に語彙が喪失してしまっているが、これは「車」だなー、ということを思った。この「車」さを前にしたら、軽自動車ってあれ、もしかしたら本当は車じゃないんじゃないかと思えてくるほど、実に「車」だった。僕はこれから、やっと「車」に乗るのかもしれない。車って、そうか、車なんだな、と新しい車観が啓けた。納車が愉しみ。