2024年12月26日木曜日

おむすび三太・濫用エース・台帳的な

 娘たちにサンタクロースからのプレゼントが届く。しかし娘ら、小5と中2である。サンタの存在、果たしてどうなの、いまどういう捉え方の段階なの、と思う。思うけれど、口に出して確認することはもちろんできず、また娘たちも、そこを突くと藪蛇になるかもしれないと警戒しているのか、まったく言及してこない。存在を疎ましく思うものを、ないものとして扱うというのはよくある話だが、いまわが家ではサンタが、もはや誰にとっても存在しないのに、あるものとして扱うという、不思議な状態になっている気がする。しかしサンタというのは、具体的に実在すると考えると、不法侵入とか、贈与税とか、いろいろ問題が出てくるわけで、本当はいないのに各人の心の中でだけいることになっている、というこの状態こそ、実はサンタの正しい立ち位置なのかもしれないな、とも思う。サンライズのアニメの原作者って、会社全体の共同ペンネームとしていつも矢立肇なわけだけど、それみたいな感じで、わが家4人それぞれの、クリスマスという催しにまつわる思念が合体し、でもぴたっとは嵌まらないので隙間が空く、その隙間こそがアイノカタチであり、サンタクロースノカタチなのだと思う。だからその容貌は、毎年変化する。今年のサンタは、曜日の巡りがよくなかったため、週末と平日、ふたつの顔があってちょっと馴染みづらかった。

 年末恒例の健康診断が執り行なわれた。クリスマスイブ、火曜日のことで、前週金曜日が忘年会、土曜日がブリ大根、日曜日がクリスマスディナーとあっては、数値のことを気にしてアルコールを制限するなどということができるはずもなく、ここでも頂上戦争のときのエースの達観、悪い意味での、「もうジタバタしねえ」が発動した。このため結果がどうなるか、わりと不安はあるけれど、唯一の救いは、結果が返ってくるのはどうせ年明けだ、ということだ。残酷な現実を突きつけられ、テンションが下がった状態で年末年始を過さなくていいのだ。ならいい。もうジタバタしねえ。

 ファルマンがひそかにやっている、台帳的な名称の文章投稿サービスがあるのだけど、そこが先日、あなたの1年間の投稿まとめみたいのを送ってきてくれたそうで、少しだけうらやましいと思った。もちろんそんなの、今のご時世、AIが自動でやってくれるのだろうけど、でもなんか丁寧に扱われていると言うか、なんだろうこれは、通信簿とかからの発想だろうか、君のがんばってるところきちんと見てたよ感というか、そういう喜びがあるだろうな、と思った。
 じゃあパピロウ、台帳的な名称のあれを始めちゃうの、と言われれば、もちろん答えはノーである。InstagramやTikTokなど、文章を蔑ろにするツールは好きではないが、それと同じくらい、いやそれよりもはるかに強い度合で、文章表現を尊ぶツールおよび、それに群がる輩のことが大嫌いだからだ。読書とか文章とか、そういうのを好きな人、そういう表現手段にアイデンティティを持っている感じの人、本当に嫌。ダサくて汚らわしい、と思う。台帳的な名称のあれには、それのにおいを強く感じるので、忌避している。もちろんファルマンをはじめとして、それほどの情念を持ってやっているわけではない人も大勢いることは判っている。それでもやっぱり拒否感が拭えない。
 翻って、Bloggerである。あなたの1年間の総括? まったくない。そもそもびっくりするくらい、運営側の、運営している感がない。というより、もうだいぶ前から運営されていないんだと思う。あのGoogleが、2024年にまだブログに思いをかけているはずがないのだ。ブログってもうFAXとかMDの仲間なのだから。もう管理者はとっくにいなくなっていて、でも設備はまだ使えるので、僕はその廃墟に勝手に忍び込んで遊んでいるのだ。そのうち管理者がここの存在をひょんなことから思い出して、「どうでもいいっちゃいいけど、まあ処理しとくか」みたいな感じでスイッチをひとつ押せば、Bloggerは音もなく消え去るに違いない。ブログをやる上でBloggerはとても快適だけど、常にその恐怖がつきまとう。だから定期的に投稿記事をダウンロードして保存している。
 台帳的な名称のあれのユーザーの扱いが先進国(北欧とか)の子どもだとすれば、いつ灯が消えるか知れないBloggerで生きる僕は、難民みたいなものだと思う。それでも僕は自分のしあわせよりも、世界全体のしあわせを願ってやまない。

2024年12月19日木曜日

そういうんじゃない・パラレル・射精のエース

 年末にもらうご褒美を決めた。メガネだ。
 僕とメガネの付き合いは車の運転をきっかけに始まっていて、だから基本的にメガネは運転のためという考えがベースにあるのだが、でも以前はそれを運転以外の場面でも掛け続けていた。しかし前回か前々回あたりに作り直した運転用のメガネは、ずいぶん度が強いものになって、そうじゃないと規定に満たないというからそれはしょうがないのだけど、それまでの単に目がちょっと良くなる次元のメガネではなくなってしまったため、日常の、食事であったり縫製であったり読書であったりの、手元の作業の際にはとても掛けていられず、結果として運転時以外は裸眼の人となっていた。
 しかし最近になって、物がぼやけるとか、具体的にそういう症状があるわけでは決してないのだけど、微妙に違和感というか、ちょっとした不都合を感じる場面が現われはじめたので、じゃあもう運転用とはぜんぜん違う目的のメガネというものを持つことにしよう、と考えたのだった。
 ここまでを読んで、読者諸兄の頭の中には、ひとつの疑念が思い浮かんでいることだろうと思う。41歳。微妙な違和感。手元用のメガネの必要性。え、それって……。
 違う。そういうんじゃない。パピロウに限ってそんなことあるわけないだろ。
 否定の明確な根拠がある。ご褒美で買う、という点だ。もしも本当にその理由で買うのなら、それはご褒美という名目ではなく、必要な支出ということになるだろう。そうじゃないんだ。ご褒美なんだ。カジュアルな気持ちで買うんだ。信じてほしい。俺は信じてる。

 ポルガが学校の友達と映像通話をする。いや映像通話というか、ただLINEをずっと繋げて、もちろん会話もするが、黙って互いに勉強したり趣味のことをしたりもするようで、話には聞いていたが、いまどきの若者は本当にそういうことをするのだ。
 なんで学校が終わったのに学校の人と繋がろうとするんだ、やっと解放された自分の時間だろうと、この若者文化を初めて知ったときには思ったが、部屋でひとり裁縫をしたり筋トレをしたりする際、まったくの無音はなんとなく味気なくて、音楽を流したり動画を再生したりする自分の姿に気付き、しかも主目的ではないそっちのセレクトに時間をかけたりしているバカバカしさのことを思うにつけ、気の置けない友達と、意識しているともしていないとも言えない絶妙な距離感で繋がってるのって、たしかにちょっといいかもなあと思うようになった。
 いいかもなあと思ったが、もちろん僕にそんな相手はいない。いるわけがない。老若男女、どのパターンを想像しても、誰とも繋がりたくない。唯一この人となら繋がってもいいなと思ったのは、パラレルワールドの僕自身だ。そこと繋がれたら、僕たちは時にはしゃべり、時には黙り、ずっと愉しく過せると思う。そんなスマホアプリがあればいいのにな。

 わりと何度も書いてきた今年の射精回数についてだが、ある境地に至った。
 10月までの回数が、去年の総計に対してバチバチな感じだったので、11月に奮起し、12月はこれで余裕かと思いきや、体調を崩したことでなかなか際どくなった、というのがここまでの流れだが、今年も残すところ10日あまりとなったところで、今年の射精回数を表示していたモニターは、スルスルと頭上から降りてきた「?」のパネルによって、閉ざされたのである。もうここから先は、数字とにらめっこして回数を調整するようなことはできない。そもそもがするべきではなかった。去年の108回という数字を凌駕するためにする射精は不純だ。射精は回数を増やすためにするのではない。欲求と快楽のためにするのだ。2年目という、1年目という分かりやすい標的がある状況にあって、僕はそんな大事なことを忘れてしまっていた。とは言えこれは11月の盛んだった射精を否定するものではない。あれはあれでよい経験だった。
 射精についてとても真摯に向き合った結果、こんな境地に至ることができた。もはや気分は頂上戦争のときのエースだ。俺は……もうどんな未来も受け入れる。差し伸べられた手はつかむ。俺を裁く白刃も受け入れる。もう、ジタバタしねえ……みんなにわりい。
 元日に「?」のパネルが外され、そこにどんな数字が現われようとも。

2024年12月14日土曜日

精貯・ヌンチャク・カラオケ

 10月終了時点、すなわち残り2ヶ月時点での射精回数が、去年の数字とかなりデッドヒートの感じだったので、負けてはならじと11月に大いに発奮したのだった。その結果、今年の記録が去年を上回るのはまず間違いないとして、話の焦点は、来年以降のことも見据え、数字をどのあたりまでで抑えるかだな、などと思っていた。12月開始時点では。
 ところがその直後に疑インフルを発症し、1週間あまり体調が万全でない期間があったあと、さらに咳はしつこく残り続け、だいぶ低調な日々であった。咳は今週でようやく治まったが、師走も早半月が過ぎようとしているところで、ここまでの射精回数を数え、ふぁっ? となっている。11月で稼いだ射精貯金が、見事に食い潰されてしまった。余裕であったはずの12月の射精ノルマが、兎と亀よろしく、今年の僕がひと休みしている間に、去年の僕はひたひたと背後に忍び寄ってきて、ふたたびデッドヒートの様相を呈している。
 なんてこった、とも思うし、そう来なくっちゃ、とも思う。やー、愉しませる。最後まで目が離せない。去年の僕、今年の僕、どちらが勝っても白組優勝の、大みそかの白濁射精合戦とはこのことだな、と思う。特別企画で氷川きよしさんも出演します。

 1年の最後に今年がんばったご褒美的なものを買う、もとい買ってよい、という慣習が数年前から醸成されている。生きる活力となる、とてもいい慣習であると思う。
 しかしいざ欲しいものとなると、これがなかなか思い浮かばず、いつもわりと決めあぐねるのだった。去年はさんざん悩んだ挙句、わりとどうでもいいものをこまごまと選んで買ったように思う。そしてそのとき買ったものは、今年まるで活用できなかった。今年はそんなことにはならない、本当に必要な、いいものを選びたいと思っている。
 思っているのだが、しかし一向に思い浮かばないのだ。その様子を見てファルマンは、それくらい満ち足りてるってことだね、などと言ってくるのだが、そんな実感はない。物欲はある。でも本当に手元に置きたいかと訊ねられると、意外とそうでもなかったりするのだ。じゃあこの人はなにがどうなったって満足できないんじゃないか、とも思う。
 困った末に、気付けばamazonで「ヌンチャク」と検索し、検索結果が出てきた瞬間に、前にもこうしてプレゼント的な物品選びで困ったとき、俺はamazonでヌンチャクを検索した、と鮮明に思い出した。ヌンチャクは僕の人生の欲しいものランキングで、常に7位とか8位あたりにいるのかもしれない。いぶし銀の働きだな。そしていつまでも買わない。

 年の瀬に初の試みとして、実家の面々とカラオケに行く予定を立てた。実家の面々とは、義父母、次女一家、そして三女で、わが家と合わせて総勢11人となる。なかなかの大所帯。
 家族以外の人とのカラオケというのが、社会人になって以降ほとんどないので、これはもう友達がいない人あるあるとしか言いようがないが、妙に身構え、張り切っているのだった。なにを唄うか熱心に考え、カラオケプレイリストを作り、通勤の車中で練習している。義妹や義妹の夫とカラオケをするのは初めてなので、なるべく誤解されたいと言うか、3~6学年上の人間は、なるほどここらへんの歌を唄うのだな、世代が違うものだな、みたいなことを思われたい。なにを唄えばそう思ってもらえるかと考えて、最初に頭に思い浮かんだのはMAXだった。年の瀬の、初めての親族カラオケで、長女の夫、ひとりMAX。場が本当にどうしようもない空気になるだろうことも含め、なかなか上質なセレクトなのではないかとも思ったが、いかんせんMAXの歌はつまらない上に長いので、出オチのボケとしてはリスクが大きいのだった。ファンなんだけどね! ファンなんだけど!
 あと少し迷っているのは、中山美穂を唄うかどうか。ちなみに中山美穂の楽曲のラインナップを眺めていたら、「50/50」という曲があるのを発見し、これは今年のこのタイミングで唄うしかないのではないか、などと思った。

2024年12月4日水曜日

体調・コーヒー・流行語大賞

 本格的に体調を崩していた。いま思えば先週末あたりからよくなかったのだと思う。酸欠状態で筋トレをしたせいかと思っていたが、そういうことではなく、昨日ポルガが学校を早退して病院に行ったところインフルエンザという診断だったので、じゃああれだな、俺もそういうことだったんだな、と思った。特効薬をやったらしいが、ポルガはまだ具合が悪そうだ。僕は概ね回復した。自然治癒である。まあコロナ後の世界で堂々と言うことではないけれど。昨日なんかは、体の回復のために、夜8時に寝た。8時なんかに寝たら、さすがに明け方とかに目が覚めてしまうのではないかと思ったが、きちんといつも通りの時間まで、10時間あまり目一杯寝たのだった。薬を服んでいたとは言え、我ながら睡眠力がすごいなと思った。もしかしたら僕は竈門禰豆子の子孫なのかもしれない。
 あと先週末からうっすらとインフルであったと考えたら、僕はその状態でカラオケに行き、「君は薔薇より美しい」なんかをビブラートをきかせて唄い上げたわけで、見上げたプロ根性だと思った(でも言われてみたら、その前の晩も9時間くらい寝たし、カラオケのあともしんどくなって帰るなり少し寝たのだった)。幸い、布施明の飛沫を浴びたかもしれないファルマンとピイガに発症の気配はなく、「離れた部屋」を要求したポルガだけが発症したわけで、感染源がこんなことを言うのも何だけど、そら見たことか、と少し思った。

 インスタントコーヒーにはおいしいのとおいしくないのがあって、いま家にあるやつはおいしくないやつなので、飲むたびにしょんぼりした気持ちになる。家で飲むコーヒーをどうにかしたいという気持ちは前々からあって、定期的にマシーンをAmazonで眺めたりもするのだけど、眺めれば眺めるほど買う気が失せ、結局スーパーで適当なインスタントを買ってしまうというサイクルがずっと続いている。なぜマシーンの販売ページを見ると買う気が失せるのかと言えば、レビューがコーヒーマウント、グルメマウント、テクニックマウントに溢れているからで、そういう醜い人々のカルマを見ていると、心が荒んできて、俺はもう、コーヒーという世界から逸脱した立場でいよう、インスタントで別に問題ないですけど? というスタンスでいよう、と思うのだった。そして早晩インスタントのおいしくなさに不満を募らせる。じゃあもうレビュー欄見るなよ。

 今年もユーキャンのほうの流行語大賞が発表になり、そして今年も大いにやいのやいの言われている。ちなみに大賞は「ふてほど」であった。
 まあそりゃあね、なにか言おうと思えばいくらでも言えるわけだけど、もはやこうなってくると、扱いとしてはほぼ迷惑系ユーチューバーみたいな域になってきて、触れたら負け、みたいな感じがある。もしかしたらツッコミ待ちでアクセス数を稼ぐ作戦なのかもしれない。
 15年前にcozy ripple流行語大賞を開始したときは、本家であるこちらには、まだ絶大な力があった。それが年々勢いを落とし、今ではこんな有様だ。切ない。賞がふたたび栄華を取り戻すには、抜本的な改革が必要だと思う。そして運営としてもそれを企図しているのではないかと、僕は少し思っている。今年のトップテンの最後、すなわち現時点でこの賞が選んだ歴代の言葉の中でいちばん終わりに置かれている言葉が、「もうええでしょう」だからだ。それを最後に賞が終わったら、ちょっとかっこいいと思う。

2024年11月27日水曜日

年間行事・愛の不時着・寝言アプリ

 今年も無事に年間行事をやり遂げることができた。「cozy ripple名言・流行語大賞」と、「パピロウヌーボ」である。とてもめでたい。
 また、あまり自画自賛しすぎるのもどうかとは思いつつ、シンパがいないのだから自分で言うしかないので言うけれど、今年の出来もすばらしかったと思う。毎年、大賞発表のプレゼンターと、パピロウヌーボのゲストという2名を誰にするか考える必要があり、今年の場合、後者のフワちゃんはわりと前から定まっていたのだけど、プレゼンターのほうがなかなか決まらなかった。いっそやす子にしてしまおうかとも思っていたのだが、寸でのところで水原一平のことを思い出して、ことなきを得た。
 去年、林葉直子がヒョードルとしてコメントする、というカオスな展開にした結果、ファルマンの反応が鈍かったパピロウヌーボであったが、今年は好評を得た。「それは『俺のむべなるかな』じゃなくて『僕のヒーローアカデミア』」のところがよかったそうだ。あと授賞式で水原一平のふくらはぎに嚙みついたのが、デコピンかと思いきやただの野犬だった、というところも褒められた。嬉しい。
 ああ、1年間の総決算、本当に愉しかったな。作業中、めくるめく愉しい日々であった。ではあったのだけど、ライフワークである「おもひでぶぉろろぉぉん」のほうが疎かになったという事実は否めず、そちらへの意欲もかき立っていた。ようやく大型イベントが終わったので、ふたたびそちらに戻ろうと思う。昨日少しだけやって、過去の僕は2008年の9月20日を迎え、25歳になっていた。25歳! 昔だな! そしてなんかいつまでも、現在に対して16~17年前くらいの関係性が続いている。もっとガンガン進めたいのだけど。

 Netflixで「愛の不時着」を観終えた。どうでしたか、と訊かれればもちろんおもしろかった。1話が1時間以上あるやつの全16話を観て「つまらなかった」という人間はあまりいないだろうと思う。
 いわゆる韓流ドラマというものを観たのはこれが初めてで、鑑賞の途中でも書いたけれど、なるほど女性にとってこれは紛うことなき性的刺激なのだろうな、と思った。恋愛および性行為で得られるのと同じ成分の快感が、韓流ドラマを観ている女性には絶対に発生していると思う。僕は話としておもしろいと思ったけれど、そちら方面の効用は得られないわけで、そこまでさかったように入れ込むということにはなりようがないな、と思った。
 ちなみに観終えてからファルマンに教えてもらって知ったが、主人公のふたりはこのドラマのあと、実際に結婚したそうである。それを聞いて僕は、思わず「三浦友和と山口百恵みたいじゃん」と言ってしまったのだけど、その次の日くらいに、なぜ自分はあんなことを言ったんだろう、と不思議な気持ちになった。せめて反町隆史と松嶋菜々子だったではないか、などと思った。

 流行語にもノミネートされた「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」を筆頭に、まれに僕が唱えるという寝言を、ファルマンが聞いたときは報告してくれるのだけど、当然ファルマンだって熟睡しているときもあるわけで、そういうときの寝言がもったいないと感じ、いっそのこときちんと寝言を録音する体制にしてはどうかと考えて、アプリをダウンロードしたのだった。枕元にスマホを置いておけば、物音がした際に勝手に録音を開始してくれるという。横で寝るファルマンは、「やだ、そんなの怖いじゃん」と嫌がっていたが、まあお試しでやってみようよ、ということで作動させて寝ることにした。
 その夜、午前2時のことである。「そのアプリ、やめてよ!」というファルマンの鬼気迫る声で起された。え? え? と戸惑っていると、「気になって眠れないから!」と強い口調で言われ、寝ぼけ眼のまま、わ、わかったよ、とアプリを解除したのだった。
 僕の寝言録音用である。当然、スマホは僕側の枕元に置くのである。冷たい言い方になるが、「お前は別に関係ない」のである。それだのにファルマンは、物音を立てると録音されるというのが気になって気になって、ぜんぜん寝付けなかったのだそうである。
 なんという、なんという自意識なのか。知ってはいたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。もはや自意識おばけと言っていい。さすがだ。
 かくして、寝言録音アプリは1日ともたず、アンインストールの憂き目となった。「どうしても録音したいなら別々の部屋で寝よう」と言われ、いや別に俺もそこまでして録音したいわけじゃないけど、でもそれにしたってこれってそんな過剰反応する事柄? と思った。
 そして、「自意識おばけ」って「人間ごっこ」の言い換えだな、とも思った。

2024年11月13日水曜日

聖・松本・靴下

 cozy ripple名言・流行語大賞のための1年間の日記読み返し作業を終える。
 11月にこの作業をして、毎年しみじみ思うこととして、自分が愛しい。なぜならこの人は、とてもまじめに生きているからだ。不条理なことや、不愉快なこと、さらには不可解なことなど、数え上げればきりがない、この澱んだどぶ川のような世の中において、まるで凛と咲く一輪の花のように、切なく、そして輝いている。その輝きはひとえに、心性の健やかさに起因する。それはもはや奇蹟と言っていい。なぜならこの腐った世界は、そんなふうに輝かずに生きたほうが、よほど楽なようにできているからだ。でもそれはたとえ楽でも正しくないという、この人にはそういう確固たる理念があるのだと思う。そしてその理念は、有り余る知性に裏打ちされている。蒙昧になにか教えられたことを妄信するのではなく、独自の思考の果てに、揺るぎない正義を立脚させているのだ。それゆえに強い。これほど尊くある人を、寡聞にして僕は他に知らない。
 cozy ripple名言・流行語大賞の発表とは、すなわち僕という人間の1年間を、敬い、慈しむことなのかもしれない。だとすればそれはとても聖なる行為、略して聖行為だし、僕による聖行為の対象となる僕自身もまた、僕に対して同じ気持ちであると考えれば、ここには聖的同意が発生すると言える。僕ら、いつまでも聖らかな関係でいようね。

 そんな俺の聖らかさに対して松本人志と来たらどうだ。
 「事実無根なので闘いまーす」と言って、今年の初頭から姿を消していた松本人志が、先日とうとう訴えを取り下げたじゃないか。
 前から言っているけど、事の発端である女遊びそのものは、どうだっていいのだ。松本人志の家族とか、相手女性の尊厳とか、そんなことは僕には無関係である。ただ、報道が出てからこっち、松本人志の動きがあまりにも不細工で、そのことにショックがある。
 いかにもおっさん臭い、ノスタルジックなことを言うけれど、「ごっつええ感じ」で「エキセントリック少年ボウイ」が初めて流れたとき、僕は衝撃を受けたのだ。大袈裟ではなく、おもしろさってこういうことか、と思った。そこで心を奪われたものだから、それからというもの、松本人志の振る舞いが少々目に余っても、それでもなんだかんだで愛し続けてきたのだと思う。
 しかしそういった素行の悪さや下品さが、ギリギリのところで、鬼才であるがゆえの尖りとして受け入れられていたのが、今回の件はちょっと毛色が違う。バチバチするような危うさは消え、その魅力がもたらしていた説得力も霧散し、ただ虚しい。そこに信じられなさがずっとあり、なんとなく目を逸らし続けている感覚がある。
 話にいちおうのけりがついたことで、年明けにも復帰するという報道がある。反対する気持ちはない。むしろ純粋に嬉しい。でも同時に怖い。出てきた松ちゃんがひどい有り様だったらどうしよう、という恐怖感がある。

 靴下のことで悩んでいた。
 夏の間は、ズボンが7分丈みたいなものばかりだったので、靴下もいわゆるくるぶしソックス的なものになり、後述するが、こちらは大丈夫なのだ。
 しかし涼しくなって、ズボンが長ズボンになると、それほど長いものではないが、ふくらはぎの途中くらいまではあるような丈の靴下を履くことになる。これが悩みの種なのである。
 なぜなら、男性物の靴下のデザインは、死ぬほどつまらないからだ。
 くるぶしソックスはそれでも、けっこう遊んでるものも売っているのだが、普通丈の靴下になると、そこはもう例の、黒・白・灰・紺・茶しかない世界が広がっている。本当にだ。本当にその色しかないのだ。成人男性はいったい何の神に何の罪を犯したことで、こんなにもファッションから色を奪われてしまったの、と嘆きたくなるほど、そんな色のものしか売っていないのである。
 それでも稀に、あるときある店で、まあこれなら履いてもいいかと思えるようなものに出会うことがあり、そういうときに入手することでこれまでなんとかやってきたのだが、最近はとみにそういう出会いがなくなり、いよいよ手持ちの靴下のかかとやつま先の生地が薄れてきて、火急の課題となっていた。
 しかしこの問題は先日、とあるひらめきによって一気に解決した。
 作ることにした、ではない。ハンドメイド靴下にはまだ進出しない。そうではなくて、今年の誕生日にもらった靴と同じ解決法である。
 すなわち、女性物でええやん、となったのである。女性物靴下、対応サイズが21cm~25cmなどとなっていて、だったらいけるんじゃないか、と思って買ってみたところ、ぜんぜんいけた。靴のときにも言ったが、ちんこと違い、足があまり大きくなくてよかった。
 女性物が大丈夫ということになると、一気に世界が拓けた。色とりどりの、ふざけたキャラクターとかが描かれた靴下が、すべておかずとして立ち上がってくるのだった。
 というわけで先日から、左右で色のちがう靴で、それを脱いだらパンダ柄の靴下、なんてふざけたスタイルで暮している。愉しい。

2024年11月9日土曜日

流行語・おせち・瀬古

 今年もユーキャンの新語・流行語大賞のノミネート語が発表となり、じっくりと噛み締めた。しかしどんなに噛み締めても、まったくもって味が薄く、感想を求められても途方に暮てしまうような、そんなラインナップであった。
 ただ、ニュース記事において、どうしても目に入ってしまうヤフコメを眺めていると、誰も彼もが偉そうに、この企画に対して批判的なことをのたまっていたので、逆に擁護したくもなった。カカロットを倒すのはこのベジータ様なんだからお前らがとやかく言うんじゃない的なムーブである。
 とは言え、そういう気持ちもありつつ、しかし、しかししかし、さすがにあんまりではないかと、30語を見てやっぱり思う。ただしこれは選考委員に対する不満ではない。自分も含めた国民全員に対する思いだ。みんな今年一年、言葉作りをサボりすぎた。だから1年がこんなに早かったのだ。言葉でその瞬間に楔を打たないと、時間はどんどん流れ去ってしまうのだ。
 30語のうちのひとつに、「名言が残せなかった」がある。やり投げ金メダルの北口榛花が言った言葉だそう。これはもはやとんちの世界だと思う。「名言が残せなかった」というフレーズが、新語・流行語のノミネート30語に入ったのだ。こいつは一本取られたな、じゃない。だって一本目の投擲で金メダルを確定させましたからね、じゃない。やりはまっすぐ投げたらいいだろうが、言葉はもっとひねりをきかせるべきだ。言葉作りに、投げやりになっちゃいけないよ、榛花。
 ちなみにユーキャンの向こうを張るcozy ripple名言・流行語大賞は、例年どおり11月23日発表予定となっております。年の瀬ですね。

 先日岡山に行ったとき、運転しながらおやつなどをパクつくわけだけれど、そのとき僕が食べていたのが、おなじみの鈴カステラと、あとチップスター(筒に入った成型ポテトチップス)で、しっとり甘い鈴カステラと、パリっとしょっぱいチップスターが、絶妙の組み合わせで、AからB、BからA、どちらの瞬間にも口の中に多幸感が生じ、感動したのだった。
 その感動を、僕はこう表現した。
「おせちだ」
 これは我ながら名表現ではないかと思った。延々と食べ続けられるものへの礼讃の言葉として、「おせちだ」はとてもいいと思う。
 無粋な解説をするならば、おせちがイメージ的に、とても格式の高い、ハレの日の贅沢品であるとされるものであるがゆえに、今回の鈴カステラとチップスターのように、要するにそれ、砂糖の小麦粉と塩の芋じゃねえかという、安っぽいものであればあるほど、そのギャップが愉快に感じられるのだ。だから、マックシェイクとマックフライポテトであるとか、五円チョコとうまい棒であるとか、そういうものを食んで、言えばいい。
「おせちだ」

 市民マラソンの大会で優勝した。そういう夢を見た。
 ほとんど飛び入りのような感じで参加して、普通に走っていたら、僕よりも速く走っている人が誰もいなくて、トップの座を明け渡すことなく、いちばんにゴールしてしまったのだった。流れで参加したものだから、家族も応援になど来ていなくて、ゴールしてから電話をし、テレビを付けるよう伝えた。テレビで中継されるような規模のマラソン大会だったのだ。実際にそんな大会で僕が優勝できるはずはないのだが、さすがは夢である、こんなこともあるんだな、と受け入れていた。小賢しいなと思ったのは、今大会の解説をしていたのが瀬古さんで、瀬古さんは大会を振り返り、そのレベルの低さに苦言を呈していた。ここに、(実際はぜんぜん合っていないが)帳尻を合わそうという魂胆が透けて見える。僕が優勝するマラソン大会など実際にはあるはずがないが、瀬古さんが憂うほどに選手のレベルが低かったわけで、そうなってくると僕が優勝というのにも若干のリアリティが出てくる、という計算らしい。完全な計算ミスである。憂うどころの話ではない。この瀬古さんのいる世界線の日本マラソン界、もとい日本国そのものは、運動能力的にもう完全に終わっている。そう考えると、国として完全に終わっているのに瀬古さんが解説している、というのが逆におもしろく思えてくる。なんかそういう夢だった。人の夢の話ってね。