2025年1月7日火曜日

盛りのついた犬・クズ知人・保護者さん

 年末年始の長い連休の最後のほう、なんのストレスのない日々を送っていたのに、なぜか体調を崩してしまった。食事とか、睡眠とか、平日はわりと時間がきっちりと定まっているのに対し、連休中はそのあたりのことがグチャグチャだったので、体にとっては逆にそれが強いストレスになったのかもしれない。喉は痛くなるし、さらには珍しく目が充血したりした。年始からさんざんだぜ、と嘆くほど大崩れしたわけではないけれど、連休明けの出勤と併せ、テンションはとても下がった。去年のGWも今回と似たようなことになったと記憶している。連休のことを尊びすぎて、愛が重たすぎるのかもしれない。もっと平然と、アーバンでアダルトないい関係を築きたいと思うが、いつだって盛りのついた犬のようになってしまう。腰の躍動が抑えられない。そして最終的には陰茎に血が集まりすぎてひっくり返ってしまう。切ない生きものだと我ながら思う。

 去年、ファルマンの祖母(父方)と祖父(母方)が亡くなったものだから、まあ喪中ということで、という感じで今年は年賀状をやらなかった。喪中ということにするかどうかは個人の判断という雰囲気だったが、年賀状作りにまつわる億劫さが背中を押し、じゃあ喪中だよ、バリバリ喪中だよ、ということにしたのだった。
 しかしそんな半端な、言わば半グレ喪中であるため、じゃあ喪中のハガキを出すかと言えばそんなこともないわけで、毎年年賀状のやりとりをしている人に対しては、ただ無言で今年から年賀状を送るのをやめた人になっている。とても感じが悪いと思う。
 こんな僕にも実は、学生時代の知人で、なぜか年賀状のやりとりが続いている人がふたりだけいて、そのおふたりからは今年もきちんと年賀状が届いた。向こうもこのタイミングで唐突にやめてくれていれば助かったのに、こんなクズ知人のもとへ、律義に手書きのメッセージまで記して送ってくれたのだった。年賀状という習慣はもう本当にやめたいと思っているし、また正直に言って、このふたりと実際に再会する日が来るとは思えないが、それでもさすがにこのまま音信不通になるのは、不義理が過ぎるだろうと思う。
 こんなときは寒中見舞いという名目で文を送るものらしい。でも待ってよ、と思う。年賀状が億劫でキャンセルした界隈の人間が、寒中見舞いなどという、これまで続けてきた惰性さえもない、そんな新規の行為を、やれるだなんて思いますか。もはやその億劫さは年賀状の比じゃない。こんなことなら素直に年賀状を適当に作り、ペッペッペーと送っていればよかったと、激しく後悔している。

 「nw」に書いたが、ピイガのコートとキャスケットを作ったので、その代金をピイガちゃんの保護者さんからいただくことになった。「保護者って言うな。その言い方、嫌いだから」とのことで、交渉していた保護者さんとは、言うまでもなくファルマンである。
 そして交渉の結果、どうなったかと言うと、いつもスイムウェア用の生地を買っている店で、自分の小遣いではなく、今回はクレジットカードのほうで注文をしていい、ということで話がつく。嬉しい。というわけで連休で30枚のスイムウェア製作に取り掛かり、それがまだ途中段階なのに、また発注してしまった(ファルマンの気が変わらないうちに、という焦りもあった)。
 この際、ファルマンがこういうことを言った。
「そうね、年末年始、実家との絡みとか、よくやってくれたし」
 これは、本人としては純然たる恩義の表明なのかもしれないが(あるいは生地なんかを貯金から拠出することに対する忸怩たる思いを必死に処理しようとしている可能性もある)、実はあまりよくない発言だ。なぜなら、コートとキャスケットには、まず材料費がある。それは最低限の、もらって当然の費用だ。そして品物が無事に完成したので、それプラス、ということで今回のご褒美買い物になっているのだ。そこへまた新たな名目も付与されては、じゃあ工賃はいくらなんだよ、という話になってくるではないか。
「それに、ごはんもずっと作ってくれたしね」
 それだのに、さらに加えてくる。やめてくれ! と思う。材料費と、実家でのがんばりと、9日間の炊事担当。もはや買い物の購入金額の中に、工賃の入り込む隙間はまるでない。工賃ってそう。工賃ってそうなんだよ。つらい。